復活節第4主日 2024年4月21日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 4章8~12節

第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2節

福音朗読 ヨハネによる福音書 10章11~18節

 

 

<お説教要約>

きょうは復活節の第4主日。〈聖書と典礼〉にもあるように、毎年、聖ヨハネによる福音書第10章から読みます。そこには、イエスが良い牧者であることが伝えられています。良い牧者としての働きも説明しています。そういうテーマは毎年あるので、同じ日が、世界召命祈願日にもなっています。特に、良い牧者であるキリスト、全教会の牧者であるキリストの働きに参加する司祭、司教、助祭のことを考えて、私たちはその召命のために祈っています。そして、これは良い牧者であるキリストの働きと、キリストが望んだ務めに与る者たちの役割について考える機会です。

 

特に、今年は、特別なところがあると思います。ちょうど、この主日に、大船教会に実習に来ているグウェップさんが、助祭叙階を受けることになります。以前、大船教会に実習に来ていた枇杷さんも、同じ主日に助祭叙階を受けることになっています。これは喜ばしいことで、私たちにとって召命のために祈る励みにもなると思います。ちなみに、一粒会のことは去年も触れましたが、今年も皆さんぜひ、召命のために一粒会の活動に参加して、支援していただければと思います。

 

そしてもうひとつ、今年、喜ばしいことは、梅村司教様が、司教叙階の25周年を祝います。それは、横浜教区の司教になった叙階です。司教として25周年を祝うのは、それほど多くなく、梅村司教様はわりに若くして叙階されたんです。ぜひ、梅村司教様のためにも祈ってください。

 

叙階の秘跡と言えば、説明すると、ひとつの特徴があります。ほかの秘跡と違って三段階あります。助祭、司祭、司教。可能性としては、叙階の秘跡を三回まで受けることがあります。一回目は、助祭叙階。グウェップさんと枇杷さんがこの主日に受ける叙階の秘跡。それは奉仕職として。あとは、あらたに叙階の秘跡をもう一回受けたら、それは司祭叙階になります。グウェップさんと枇杷さんは、み心ならば、来年、司祭叙階を受けることになります。それは、司祭になるところです。皆さんが一番接する機会のある司祭は、普通は小教区で務めている者です。あとは、司祭の中から教皇様に選ばれたひとが、司教叙階を受けます。それは三段階目で、あらたに叙階の秘跡を受けて、それは叙階の秘跡の充満と言います。秘跡の満ちるところ、頂点を意味しています。梅村司教様は、二十五年前に三段階目の叙階の秘跡を受けました。

 

ちょっと叙階の秘跡について説明しましたが、ここでは、キリストとそういう教会の中の司牧者との関係。キリストご自身は、私たちすべての司牧者、良い羊飼いです。だから、その司祭等は主の名において働いていますが、キリストの代わりにはなれないんです。きょうの朗読をみると、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」。それは、キリストご自身のことです。そして、その力。助祭や司祭、司教にはそういう力は無いんです。代わりになれないんです。ひとつの大事なところは、キリストは言います。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。

 

〈聖書と典礼〉に書いてあるように、この「知っている」という表現は、単に知識として知っているのではなく、両者の間の深い交わりを表すことばです。それは、キリストと一人一人の信者との関係です。その意味では、司祭との関係は、キリストとの関係の代わりにならないんです。親が子どもを養います。親が子どもに食べさせます。でも、子ども自身が食べる必要があるんです。いくら親が子どものためにと思って食べても、それは子どもの栄養にはならないんです。同じように、司祭がキリストのことを皆さんに伝えようとしています、ミサを捧げます。でも、信者自身がキリストに結ばれなければ、いくら司祭が熱心に務めても、その代わりにならないんです。一人一人の信者自身がキリストに結ばれて、キリストを求め、キリストが自分を知っているように、キリストを知るようになる必要があります。

 

そのもうひとつの理由は、ここでキリストは「雇い人」について触れています。ご自分と違って、自分は良い牧者で、羊のために命を捨てます。それ以上の愛は無いんです。でも、雇い人もいます。雇い人は、羊のことを心にかけていないから、危険なことがあれば逃げます。むしろお金のためにそうしているんです。助祭、司祭、司教は、キリストのように良い牧者になるはずです、そうなるべきです。その使命を受けています。キリストとその民のために尽くして、誠実に忠実に務めを果たすべきです。そして、キリストと民に対する愛のためにそうすべきです。利益やお金や名誉など、ほかの理由は一切なく、純粋にキリストとその民に対する愛のために務めるべきです。

 

残念ながら、すべての助祭、司祭、司教は、実際はそうなっていないんですね。それは、教会は罪びとからなる教会でもあるからです。だから、この召命祈願日にあたって、新しい召命のために勿論祈るべきですが、それと同時に、これも一粒会のひとつの目的ですが、実際の助祭、司祭、司教の聖性、聖なる者になる、キリストが望むような牧者になるように祈ることもとても大切です。その人たちが、雇い人にならずに、キリストにならって、キリストと民のために尽くすことができるように。

 

でも、いずれにしても、もし司祭が雇い人になってしまったとしても、それでも信者は、キリストとの関係を大切にすべきです。それもひとつ、代わりのできないところです。司祭が悪かったと言って、自分はキリストを信じないとかキリストから離れることは残念ながらあります。でも、私たちは、洗礼を受けている以上、まずキリストを求めるように呼ばれています。司祭がそれを、私たちがキリストについていくように、手伝う必要がある、手伝うはずです。でも、そうではない場合でも、私たちはキリストについて行く、キリストを求め続けるべきです。そして、そういうような司祭がいれば、その司祭が回心するように祈るべきです。それは、特に、きょうから私たちに与えられた教訓だと思います。信仰の歩みにおいて、自己中心的な生きかたが、キリスト中心的な生きかたに成長していくように、一緒に祈り、一緒に歩みましょう。