聖木曜日(主の晩さん) 2024年3月28日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音

 

第1朗読 出エジプト記 12章1~8,11~14節

第2朗読 コリントの信徒への手紙1 11章23~26節

福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節

 

 

<お説教要約>

これから私たちは聖なる三日間に入ります。この教会の典礼の中で一番大事な時期です。一番の頂点、中心です。というのは私たちの信じているイエス・キリストの救いの御業の中心だからです。「主の受難と復活」。

今晩はその主の晩餐の記念です。これは聖書にあるように渡される夜に行われたことです。そこには主の思いというか意図があるのです。というのはキリストは一回だけ十字架にかけられて、一回だけ死者のうちから復活されたのです。実際にその出来事に関わったひとは当時そこに生きていた人だけです。でもイエスはそのような救いの御業をその土地の人だけではなく全人類のために、しかもその時代の人だけではなくすべての時代の人のために成し遂げられたのです。

 

しかし主が私たちに残してくださった記念、そう呼ばれていますが、聖書で言う記念はただ単に “思い起こす” ということよりもっと深い意味があるのです。「あとの時代の人は前に起こったことを自分の時代のものとして生きる」という意味があるのです。私たちの今の時代でもキリストの受難と復活、生きる機会、与る機会…それは御ミサにあるのです。その神秘が今ここにいる私たちの、今の時代に生きている私たちのあいだに改めて実現するのです。そういう偉大な神秘なのです。

 

その神秘の意味はこの朗読から学ぶことできます。まずその神秘は昔の旧約時代のイスラエル人の救いの歴史の完成です。ですから第一朗読を見れば過越のこと、特に過越で子羊が屠られて、その血が塗られてそれを(天が)ご覧になってイスラエル人は滅ぼされるのを免れたのです。守られたのです。そして現代はキリストにおいてキリストの死によって、私たちは滅ぼされる被害を免れたのです。むしろ滅ぼす者が滅ぼされたのです。ですから洗礼者ヨハネはキリストを「神の子羊」と呼んだのです。「世の罪を取り除く神の子羊」。そして私たちも御ミサを捧げるたびにそれを繰り返し言います。平和の賛歌、聖体拝領のちょっと前に「世の罪を取り除く神の子羊 いつくしみしみを私たちに…」それはこの旧約時代においての、その実現は新約においては第二朗読にあるのです。聖パウロが最後の晩餐の様子を、ご聖体の制定の場面で伝えています。

 

ここにも一つの側面が出るのです。キリストがパンとぶどう酒を取って「これは私の体、私の血です」と。そして弟子たちにそれを食べるように、飲むように言われます。「…記念として行いなさい」先ほどその記念のことが特にここに出ています。でもこれは契約の血で、別の旧約の場面を思い起こします。モーゼが神とイスラエルの間の契約を仲介者として結んだ時、その時は牛の血でしたがその血によってその契約を結んだのです。今はキリストご自身神の子の血によってその契約が結ばれます。そしてその血も私たちに与えられます。

 

そういう救いの技と契約…要は罪から救われて主なる神との親しい関係、愛の交わりのうちに私たちを主が導いて入れてくださるのです。この神秘の心は特に福音書に現れています。というのはどういう心で主はそれを行ったかと言えば、それはまず「愛」です。ここでは「主は世にいる弟子たちを愛してこの上なく愛し抜かれた」と書いてあります。しかしその当時の弟子だけではなくて自分の弟子になる、あらゆる時代の人間も愛し抜かれるのです。そのためにご聖体を記念として残してくださったのです。そのために受難にあい、十字架にかけられ、復活されたのです。そういう愛の心です。

 

そこにも「謙遜」があります。というのはここではイエスが弟子の足を洗う場面になります。当時は奴隷の務めでした。それは弟子たちにとっては本当にびっくりしたところです。考えてみれば誰でも恥ずかしいというか抵抗を感じると思います。それは弟子たちも同じです。聖ペトロも抗議したのです。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。」 もう耐えられないようなことです。でもここで聖ペトロの人柄がよく見られると思うのですね。私のイメージでは聖ペトロはどちらかというと感情的なタイプで考えるより感情が先に走って、でも最も良い心の持ち主で、心から主を愛していたと思います。というのはこの場面を見ればそういうふうにペトロが抗議した後でも主は言われます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」…主とかかわりがなくなる事、それこそ聖ペトロには耐えられないところです。ですからペトロは言うのですね。「主よ、足だけではなく、手も頭も」…キリストから離れたくないのです。あとで弱さのためにキリストを知らないと言ったけど、でもやはりその愛を消されなかったから、回心して主に最後まで従っていったのです。でもそこで見られることはキリストの「謙遜」です。

 

ある意味で私たちにもキリストの愛を受け入れるために謙遜が必要です。遠慮・尊敬とも言えますが、主がなさることは、受け入れなければならないのは、むしろ謙遜です。それも私たちの救いの場合はそうです。主が救いの恵みを与える時は人がまず自分が救われる必要があると謙遜に認める必要があるのです。それを認めなければ主の恵み、救いの恵み、赦しを人は受け入れようとしないのです。必要としないのです。それは何よりもの妨げですね。人間の自己中心的、傲慢なところです。愛されるには謙遜が必要です。そこはユダの最後の大きな過ちでもありました。そこではユダがイエスを裏切ろうとしていることにも言及されています。人間はどんな罪を犯しても、ユダでさえもし回心していたら主は喜んで赦してくださったと私は確信しています。ですから私たちもそれにならって、主にならってまた聖ペトロにならって愛と謙遜のうちに受け入れて、自分がどんな罪を犯しても決して絶望しないでそこで主に立ち返るように、それこそ主が私たちに求めているところです。そのためにもご聖体を与えてくださったのです。