受難の主日 2024年3月24日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 50章4~7節

第2朗読 フィリピ人への手紙 2章6~11節

受難の朗読 マルコによる福音書 15章1~39節

 

<お説教要約>

私たちは学校では世界史を学びました。でも学校で習うその世界史は表面的なものだけです。人間の様々な出来事、政治とか戦争とか経済とか文化とか…様々です。でも実際には特に聖書を通して世界史を見れば違うのです。もっと深い次元が見られます。というのは世界史の真髄は人類の"恩知らず"の歴史です。人類は自分の創造主に対して恩知らずの歴史を送ってきました。

 

それも聖書から見れば主なる神の片思いの歴史でもあります。というのは主なる神はずっと愛を持って人間を創られて、絶えずその人間を自分の愛のうちに生きるように語りかけて、呼びかけて恵みを与えて時には罰を与えて、でも全部人間が自分の愛に生きるように、それがその目的でした。人間はそれに対して逆らって恩知らずになって主から離れて時には立ち戻って罰を受けた。でもまた離れていく、そういう繰り返しです。まあある意味ではこの頂点になったのは今日祝っている主イエスの受難です。というのはキリストご自身がこの世に来られたのはこの上にない神の愛の現れです。神は御ひとり子をお与えになるほど世を愛された。もう一人を信じて信じる人は一人も滅びないで救われるためです。でもそれに対して人間の反応は壮絶でした。イエスを十字架にかけてしまったのです。そこでは十字架にかけるだけではなく、それも主を嘲ったのです。今日の朗読を見ればその連続です。ローマの兵士たちの侮辱、通りかかった人の罵り、祭司長たちや律法学者たちの侮辱、隣で十字架にかけられた犯罪人の罵り…その連続です。それが人間の神の愛に対する態度です。

 

主はへりくだって人間と同じものになって、更にへりくだって十字架にかけられたのです。もう人間の姿として見えなくなる分、虫けらであって、もう人間とも思われないような惨めな姿になっています。そして人間はそれを見下したのです。罵って侮辱したのです。でもそれはその当時のことだけではなく今日に至るまで(同じなのです。) 確かにイエスを信じて、回心して教会もできて、その時から歴史の中では主を信じて愛した人はもういっぱいいます。全人類の人口の中ではまだ少なかったですけど確かにそのグループがあります。

 

でも人間の歴史全体はやはりそこまで至ってないのです。多くの人はまだ神の愛を拒み続けてきました。今の私たちの時代にもその現象があります。現代世界を見れば主に対して恩知らずになって逆らっていることはもう目立って見えます。戦争やら騒動やら迫害やら虐殺やら…後を立たないのです。そのことに対して主は相変わらず人間に呼びかけて、ご自分への愛に生きるように呼びかけておられます。立ち返るように。それこそ人間の幸せでもあります。

 

でも主は恵みを与えることで人がご自分に立ち返らないならやむを得ないで懲らしめを与えます。それは私たちの時代に下るだろうと私は思うのです。今の現世があまりにもひどくなったからです。主はそれを放っておく訳にはいかないのです。というのは人間は懲らしめは嫌がります。でも主なる神から見れば放っておくと人間は完全に、永遠に滅んでしまうからです。それは主の望みではないのです。恵みを持って人を引き寄せたいと思います。でもそれがダメだったら懲らしめでも苦難をもってしてでも立ち返りをさせようとします。それだったら私たちはそれに備えて特にこの受難とこの後の復活の祝いを通して、私達の心を一層主に向けるように、一層主を大切にして私たちが恩知らずにならないで主の偉大な愛を黙想して心に留めて、主の愛に応えようとするように呼ばれています。それは私たちのためではなく、これは人類全体のためです。というのは主が懲らしめを与える場合、まだ忠実にご自分に従って求め、人のために祈っている人がいるなら、主の働きかけももっといつくしみを同時に示します。

 

もっとご自分を信じている人を守ってくださり、それに苦難をいくらか柔らかくして、きっとご自分に対し回心する人へ恵みもっと豊かに注いで、人をご自分の引き寄せようとされます。それは今私たちに与えられた使命です。この時期において。ご自分を求めてキリストを求めて、キリストに更に忠実を尽くして、そして人の救いのために祈って犠牲をささげるように。それだったら私たちは現代のキリストの十字架の勝利、現代に生きている人類にそれがもっと及ぶように、そういう風に主は私たちの祈り、犠牲などを受け入れてそうしてくださいます。