四旬節第5主日 2024年3月17日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミア書 31章31~34節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章7~9節

福音朗読 ヨハネによる福音書 12章20~33節

 

<お説教要約>

四旬節の第5主日になって、もうすでに教会の典礼では、私たちの注目は主の受難と神秘に向けられています。そして、きょうの朗読のテーマとしては、「従順」だと思います。特に、キリストの従順。第二朗読では、キリストについて、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ」た。それは、やはり、ゲツセマネの園での祈りを思い起こします。

 

その時の主の言葉は、ほかの福音書で伝えられています。「父よ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。そこで主は、従順を示したんです。一生従順でしたけれど、たぶんゲツセマネの園の祈りでは一番従順が試されたのではないかと思います。人間的には、酷い十字架の刑は、それぐらい受け入れにくいんです。でもやはり、最後まで主は従順です。だから、第二朗読でも言われているように、救いの源になるんです。それは、福音書にも見られるところだと思います。

 

実は、今回はヨハネによる福音を見ますが、ヨハネはゲツセマネの園の祈りの場面は伝えていないんです。でも、きょうの箇所はそれに同じようなものがあると思います。ユダヤ人たちと話していながら、キリストは言われます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」。言葉はだいぶ違うけれど、同じようなものですね。この時から救ってくださいと、やはりそこで人間的に避けたい気持ちが出るんです。でも、自分はやはりこのためにこの世に来た。それが自分の使命、それに従うべきものという意識で、「御心のまま」と「御名の栄光を現してください」とは、結局同じようなものになると思うんです。

 

それはキリストの模範、キリストのことを示しているんですが、また第二朗読に戻ると、私たちに当てはまるところがあります。こういうふうに従順だったキリストは、「御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源になり」ます。「従順」は救いの恵みをそなえてくださったんです。実際に救いの恵みをいただく者は、キリストに従順である者です。ここで言う「従順」は、信仰に含まれています。従順が含まれていなければ、本当の信仰ではないんです。口先だけの信仰です。聖ヤコブも言います。「あなたは神は唯一であると信じますか。結構なことです。悪霊どもも信じます。でも、慄いています」。そういう行いを伴わない、従順でない信仰を聖ヤコブは、「死んだものだ」と言っています。

 

従順と言っても、人間には難しいところがあります。実はそれは、ずっと遡ると、アダムとイヴの原罪。最初の罪は、いろいろの罪がありますが、ひとつ根本的なのは、不従順の罪です。主なる神の命じたことに逆らって、自分の好き勝手にやったところ、罪になったんです。その罪の赦しのために、「従順」が必要です。その場合、旧約時代はそこまでいかなかった。イスラエル人はそんなに従順を守らなかった。だから、第一朗読では、主なる神はイスラエル人は契約を破ったから、新しい契約を結んだ。そして、その新しい契約は、キリストの従順に副って結ばれた。キリストにおいての新しい契約。「従順」は、その根本的なところになる。それがあるから、新しい契約になるんです。それがあるから、私たちも救いの恵みをいただけます。

 

だから、回心の歩みは従順の歩みでもあります。もっともっと主に従順になることです。でも、従順になるには妨げもあるんです。従順を完全に拒むことは、反抗している、逆らっている罪、信仰という感じです。また、キリストを信じていながら、ほかにも妨げがあります。たとえば、恐れ。ひとが恐れのために聞き従うことは、聞き従わないよりましだけれど、物足りないです。または、責任として、義務として従うことは、それも従わないよりましでしょうけれど、本当に物足りないです。そういうものは、人間はわりに自然に負担に感じるようになります。いやがるようになります。恐れれば、それに従うでしょうけれど、たとえば、法律でも、ひとが運転する場合は、恐れのために守る場合もあるんです。でも、何も罰金をとられなければ、違反するひともいるんです。恐れが抑えています。または義務感ですると、これもまた負担になります。

 

だから、そこをもっと深い次元で言えば、愛からくる従順。それは、キリストが求めているところです。人間的にも、ひとがほかのひとを深く愛している場合は、そのひとに何か頼まれれば、喜んでやります。むしろ、頼まれたこと自体が有難いことです。嬉しいことです。自分が大好きなひとに、頼りにしてもらった、必要とされたという思いで、すごく嬉しくなります。そういう意味で、愛からくる従順は負担にならないんです。聖パウロが言う、「キリスト者の自由」はそこにあります。そういう従順は、すすんで聞き従うことだから、自由に聞き従っています。ひとが望んでやることです。でも、そうなるには、もっと深い回心が必要です。

 

その回心は、特に考えるところは、私にとって何が一番大切か。同じ福音書では、キリストの言葉では、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。ヘブライ語的な表現ですが、言おうとしているのは、キリストを差し置いてまで自分を愛するひとは、命を失うんです。自分を差し置いてまでキリストを愛するひとは、命をいただくんです。どちらを大切にするか。私たちはもっと深い決意をもってキリストを大切にし、大切だから聞き従おうとする時、その時は主がご自分の愛をもっと私たちに示してくださるんです。もっとご自分の愛を感じさせることもあります。だから、そういう歩みかたは、一段と深い信仰と回心、従順と愛の歩みになります。