年間第6主日 2024年2月11日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 創世記 3章16~19節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章31~11章1節

福音朗読 マルコによる福音書 1章40~45節

 

 

<お説教要約>

先週はキリストの宣教活動の初めにあたり、キリストご自身の心についての箇所でした。今回は、主の活動の対象になる人、主から恵みを受ける人の心がテーマになっています。重い皮膚病を患っている人がキリストのところに来て、膝まずいて願いました。「みこころならば、私を清くすることがおできになります」と。それを聞いて主はその人を深く憐れみ、手を伸べてその人に触れて、「よろしい、清くなれ」と言われるとたちまち病は治りました。

 

この人の言葉に私たちへの教訓があると思います。「みこころならば私を清くすることがおできになります」と。これは信仰、信頼、謙遜の言葉です。まず信仰を表しています。キリストの力を認めています。当時、この病を治す方法は全くなかったので、人間的には治すことは無理でした。しかしこの人はキリストには人間以上の力があると信じ、実際にそれが実現しました。「みこころならば」と言って、その判断をキリストに任せています。これも信頼の表れです。キリストの判断に委ねるなら、自分に良いようにしてくださるとイエスの善良さ、憐れみの心に信頼しています。

 

ここにはまた謙遜の態度も見られます。自分中心に頼む立場ではないとの意識がありました。自分よりキリスト中心です。それが言葉に現れています。私たちへの教訓があります。人間は原罪の影響で自己中心で傲慢になっています。それは神との関係によく現れます。困ったときの神頼み式で、普段神を信じていなくても、困っときに限って一生懸命に助けを求めながら、かなえられないと開き直って、神も仏もあるものか!と反発します。これは自己中心的な反発です。自分のことは自分の思いだけで考えて、神を説得しようとするのです。神を自分のために働かせようとします。

 

キリストはあらゆることを神に任せているようにと教えています。主の祈りにもあります。「私たちに日々の糧をお与えください」と。私たちは信頼をもって、謙遜に願うべきです。まず主のことを考えて願うように。信仰の歩みは、信仰が深まるともっとその態度になります。信仰が浅い場合には、自分が求めていることが聞き入れられないとがっかりしてしまいます。もっと信仰があればこの重い皮膚病の人のようになります。そのとき主を信頼して主に委ねる心になり、違う結果をもたらします。

 

アメリカで或る人から聞いた話ですが、その人は困ったとき、一生懸命に祈ったけれどなかなかかなえられませんでした。根気よく祈りましたが、それでもかなえられませんでした。そこで今度は態度を変えて、願うより心を入れ替えて主に委ねるようにして、「みこころならば聞き入れてください」と神に祈ることにしました。するとすぐその後で、願い求めたことがかなえられたというのです。

 

どうして主が祈りにすぐ答えないのかというのには大きな教訓があります。主は良いものを人間に与えたい、しかしそれよりももっとご自分との親しい関係を持ちたい、と思っておられます。それで、私たちからの信頼を求められるのです。上に述べた話の人は、自分がもっと主のみこころに合わせた時に主がかなえてくださった、それを主が教えてくださったのだと言いました。主にもっと信頼するように気づかせ、信頼する心を教えてくださった。そして、経験を通して、信頼するように励ましたかったのだと。

 

だが、実際にはこれよりもっと深い段階があります。最初からすべてを主に委ねることです。信仰がそこまで深くなったら、まず自分の必要より主に対する信頼が先にきます。最初から「みこころのままに」という思いで主に委ねること。心にこうしたいとの望みあっても、主がいいようにしてくださると信頼し、それをかなえてくださったら受ける、しかしかなえてくださらなくても、主が私に別の恵みを与えたいから、それを望まれるのだと受け止めます。

 

いずれにしてもがっかりしないことです。主が私の道を教え、導いてくださいますから何があっても主なる神の計らいの中にあるのです。それが、今日主が私たちにくださる情報です。特に今、それが必要です。世界の事情を見ると、もっと厳しい時代になるのではないかと危ぶまれます。何が起こるかわかりませんが、すごいことが起こっても今日の福音を思い出したらよいと思います。何があっても主に信頼し、主に希望をかけて身を委ねる。この態度があるなら主が守りしっかりと導いてくださいます。