年間第5主日 2024年2月4日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ヨブ記 7章1~4、6~7節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 9章16~19、22~23節

福音朗読 マルコによる福音書 1章29~39節

 

 

<お説教要約>

今回は年間第5主日で、キリストが宣教活動を始める頃の話の続きです。今回は特に、キリストの心が表れているところだと思います。イエズスはペトロの姑や多くの病人を癒した後、次の朝早く起きて人里離れたところに行って祈ったのです。キリスト自身は神の子であるから祈る必要があるのかと思われるかもしれませんが、それは私たちに対する教訓でもあるのです。イエズスは人間としては祈ることが必要だったでしょうけれど、一つ示しているのは、まず第一に主なる神、第二に宣教活動です。そこにキリストの心が表れています。自分の御父のみ心にかなうこと、まずそれです。それは後のことにもつながってきます。シモンたちはイエスを追いかけて、見つけたら引き止めたい。みんな探してますと言う。人間的に考えたら、それはかなり魅力的ですね。自分が人気者になったら、一緒に泊まってほしいと頼まれたら、たいていの人は嬉しくなる。でもキリストは、人気者になることを求めていない。御父のみ心を求めています。だから主は答えます。周りの町にも行って宣教する、そのために私は出てきたのだと言うのです。出てきたという表現は、ガリラヤのナザレから出てきたと考えますが、特に聖ヨハネが伝えているように、もっと深い意味では御父のもとから出てきたのです。そのために神の子でありながら人間となられて、人間としてこの世の中に来られた。「出てきた」とは、深い意味ではそういうことを指しています。

 

そのこと自体は、また主の心を表しています。それはすべて人間に対する愛のために、しかも燃え上がる愛のためです。人間のことを憐れんで、人間が主なる神から離れて不幸になったことを憐れんで、人間を探しに来たのです。イエズスご自身が後のたとえで話したように、羊一匹が迷い出たら人が探しに行く、それはキリストの全人類に対するイメージです。その熱意は、ずっと最後まで続いています。しかも一人一人に対して。当時は特にユダヤ人の間でしたが、後に使徒たちを全世界に遣わしたときは、ご自分は一緒にいると約束して、使徒たちを通してまたはそれを越えて直接いろいろな人に働きかけて、人を救おうとずっとしてこられました。今日まで。そして、それは最後までです。主は神から離れた人間を追いかけていきます。死ぬ瞬間まで。そのときも主は特別に語りかけます。同時に悪霊もそこに働きかけます。最後に陥れるチャンスだからです。でも同時に最後に救うチャンスでもあるから、キリストは愛をもって死にゆく人のところに臨んで救おうとされます。人間は死を迎えるときには特別な状態です。そのとき人間の心は主の前に裸になって、本心が表れます。

 

人生を通して、主なる神はいつも私たちと一緒におられます。ただ、私たちは必ずしも主なる神と一緒にいるわけではない。それは認識の問題です。アダムとイブが罪を犯して主から隠れようとしたのと同じことを、今日に至るまで人間はする傾向があるのです。それは特にあらゆる欲望…確かに主はいつも一緒におられるのに、人間がそのことを認識しないために色々な欲望があるのです。欲望の役割は、人間が主と一緒にいることに気づかないように気を紛らすことです。それは、人間が神の顔を避けて隠れようとする精神的な働きです。でも死を迎えるときには、それは全部取り上げられます。もう何の欲望を求める時間も可能性もない。金銭でもなんでも求めることはできない。ただ一つ残っているのは、人間自身の本心。主と向き合って、そこで本心が表れます。その時も主は働きかけて救おうとされます。人間の方でそれを受け入れるかどうか、そこの問題です。死を迎えるときになったら、もう何もすることはできない。よいわざをする時間も可能性もないのです。ただただ、人間の心の向きだけです。心を主に向けるか逆らうか、背を向けるか、そのような選択です。その妨げになるのは傲慢もあるけれど、特に人生を通して主なる神を憎むようになったら、すごく危ないですね。憎しみが心に坐したら、死を迎えるときに主に心を向けることは非常に難しくなります。

 

もう一つの大きな妨げは、希望。人間は死を迎えるとき、心が裸になって本心が表れると、あらゆる悪いことは自分が意識してするようになる。自分のこれまでの人生の中で意識しないように気を紛らせたことはもうできないので、裸の心が自分自身にも表れます。そのときの大きな誘惑は、自分がどれほど悪いことをしたかに気づいて絶望する誘惑です。自分がどれほど悪かったかに気づいて、本当にこの自分でも主が許してくださるのかという疑い、もう自分はダメだ、もう救いはないと絶望する誘惑です。それもとっても危ないです。人は生涯を通して主を求め主に信頼し、成長したらもっと主の慈しみを受け入れる。でも、そうじゃない人は本当に危ないです。それでも主は最後まで人を追いかけていきます。人がずっと最後の瞬間まで拒み続けない限り、救おうとされます。最後の最後まで人生がいくら悪事に満ちていても、いくら大きな罪を犯しても、主の前でそれは問題ではないのです。そのとき肝心なのは、その人が主のみ心を受け入れるかどうか、主に向き直って、自分の死を主のみ心として受け入れて主に心を向けようとする、そういう少しの動きでもそれで主が救う可能性があるのです。救う力が働きます。そこまで主は追いかけていきます。その時は、その前の生き方によってもっと楽になるか困難になるか…、だから今の人生の重要性があるのです。今の人生の内で心が頑なにならないように、いくら罪を犯しても罪を犯すことより心の状態が一番問題です。いろいろ罪を犯しても何回も何回も立ち上がって、主の許しを求めて心を新たにして歩み続けようとする人は、主の慈しみをもっと受け入れる。それが私たちに与えられた希望、主の慈しみは永遠で限りがない。残念ながら、人間はそれを最後まで拒む可能性もあります。でも、私たちの希望は主の慈しみです。