年間第2主日 2024年1月14日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 サムエル記上 3章3b~10、19節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 6章13c~15a、17~20節

福音朗読 ヨハネによる福音書 1章35~42節

 

 

<お説教要約>

今週の日曜日で年間に戻ります。年間の初めにキリストの宣教の始まりの箇所が読まれます。今回は人たちが自分の方からキリストのもとに来ます。主はその中から選んで弟子にします。これは第1朗読に通じるところです。預言者サムエルの召命の場面です。サムエルが預言者、使徒になるように召されたときのことです。

 

これは召されて、預言者、使徒となった人たちのことですが、私たち一人一人に当てはまることです。聖パウロが説明しているように洗礼を受けること自体が一つの召命です。私たちは召されて洗礼を受けるのです。教会の典礼にもそれはが表れています。今は復活祭に洗礼を受ける人の為に四旬節の第一主日からそれが始まります。日本語では「洗礼志願者の式」というのがありますが、翻訳としてはもとの意味からう少し外れているのです。「志願者の式」よりそのもとのラテン語、英語では「選びの式」となっています。神から呼ばれているのです。洗礼を受ける人は神から呼ばれていると宣言しています。司教様が最後にこれを宣言します。人は洗礼を受けるにあたってその人の望みが大事ですが、主なる神に呼ばれ、召され、選ばれたから洗礼を受けることになるのです。幼児洗礼ではそれがもっと強く感じられます。幼児は自分から望み、選ぶ可能性はありません。まさに主の計らいによって選ばれて幼児は洗礼を受けます。

 

成人の場合、本人が望み、求めることも大事ですが、望まなければ洗礼は受けられません。望むこと自体が主の恵みの働きです。主が望みを抱くように恵みを下さいます。キリストが言われるようにご自分の方に人を引き寄せられるのです。人間の自由を尊重されるからです。人に望みを与えることにより、人は自由に洗礼を求めるようになるのです。聖書はそのように教えています。洗礼を受けてから信仰の歩みがあります。教会の典礼は年間を通してそれについて黙想する機会があります。主は弟子たちを少しずつ教育し、指導して行かれました。ご自分に従うことの意味をもっとはっきり示してくださいました。

 

主からの召しだしがありますが、それなら人間は何もしなくてよいのかというとそうではありません。呼びかけに応えることが大切であり、必要です。聖アウグスティヌスが言っているように、神は人間の協力も望みもなしで人間を造られましたが、その人間の救いは、その人がそれを受け入れて望まなければならないのであって決して強制はなさいません。聖パウロもそれにふれています。「主から頂いた恵みを無駄にしないように気をつけなさい」と。聖ペトロもそれにふれて言います。「召されていること、選ばれていること、確かなことにいっそう努めなさい。」受けた恵みを生かして主に従っていくようにと。これが私たちの今の使命です。洗礼を受けた人の使命がこれです。

 

第二朗読で聖パウロがコリントの信徒に書くとき、実はここの信徒たちは信じて歩み始めましたが、割合に早い段階で惑わされたようです。パウロが教えた主の恵みと愛、自由を誤解して、乱れた生活をするために自由を濫用したのです。聖パウロは警告します。そのための自由ではない、主に属するのだから体をもって主の栄光を表す使命があると。これは誤解される恐れがあります。今の時代にも主の愛に対する誤解がありえます。確かに主は人をありのままに愛してくださる、人が何をしても愛し続けてくださると。そこまでの理解は正しいのですが、問題は、人間がその愛の恵みにとどまるかどうかということです。主も教えておられます。父なる神は悪人の上にも善人の上にも雨を降らせます。父なる神の愛と善良の故に。しかし、受ける人の態度によってそれが変わってきます。ちょうど太陽が昇っても人が暗い部屋に閉じこもり、カーテンを引いていたら光を受けないし体も温まりません。雨が降っても、降られたところによって結果が違います。コンクリ―トの上に降った雨は地面に浸みこみません。しかし、耕された土に降れば雨は浸みこんで作物ができます。

 

人は神の光のもとに行く必要があります。恵みに対しては心を柔らかくする必要があります。さもないと注がれた恵みに力づけられず、照らされた光は無駄になります。聖パウロはそれを言っています。「神から頂いた恵みを無駄にしないように気をつけなさい」と。惑わされないように必要があります。それが私たちの使命です。主に対して心を開いて、主に従っていくこと。恵みを拒むならせっかく召されても永遠の地獄に落ちるおそれがあります。私たちは洗礼によって救われる恵みを頂きますが、救われることの保証はありません。希望はありますが。恵みを受けてとどまって恵みを活かすなら希望はますます強くなり、聖パウロが言っているように、希望によって救われます。