待降節第2主日 2023年12月10日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節

第2朗読 ペトロの手紙二 3章8~14節

福音朗読 マルコによる福音書 1章1~8節

 

 

<お説教要約>

待降節の流れとしては、毎年、待降節の第2主日と第3主日の中心人物は、洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネの私たちに対する呼びかけは、主の道を備えよ、準備せよという準備の呼びかけです。そして、きょうの福音書にもあるように、それは回心を含めています。主の道を、自分の心に通じる道を準備することの意味で回心が必要です。

 

それは聖書をみれば、すでにいろいろなところで示されています。というのは、主が何かなさるときは、前もってそれを知らせるんです。聖書を読めば何回も、たとえば出エジプト記でも、イスラエルを解放したとき、それを前もってモーセを遣わして告げて、人々にこれは神のみわざであるとわかるように、前もって知らせています。キリストが来られるときも、それを前もって知らせました。旧約聖書のさまざま預言もあるし、直前に洗礼者ヨハネが遣わされてそれを告げたんです。

 

でも、それはその時代で終わるわけではありません。いまも、主は、なさるわざを知らせてくださるんです。教会の中で、預言者という名前を持っているひとは、それほど多くないと思いますが、教会の歴史をみれば、ある聖人は特に預言者でもあった場合があります。主のなさること、主からのメッセージを皆に伝えています。その中のひとりは、ヨハネ・ボスコです。いくつかの預言的な夢をみて、主のなさること、将来のことも示されたことがあります。

 

もっと近い時代では、聖ファウスティナです。ポーランド人で、いまから80年ほど前ですが、イエスは聖ファウスティナの前に現れてメッセージを伝えました。ある意味では、聖ファウスティナを私たちの時代の洗礼者ヨハネにしてくださった感じです。これはもちろん私的啓示といわれるところで、信じる義務はないのですが、教会では信じるに値する、信頼してもいいという判断があります。この聖ファウスティナのメッセージのひとつは、主は神の慈しみの主日を設けてほしいというもので、そのメッセージを受けて、教皇ヨハネ・パウロ2世が復活節の第二主日をそのように定めました。

 

そのメッセージは教会で認められています。その中で、イエスは聖ファウスティナにご自分の到来、再臨の準備をする役割を任命しました。特に、神の慈しみの信心は準備のための方法のひとつです。イエスが聖ファウスティナに言われたのは、ご自分はやがて裁き主として来られるが、その前に慈しみをもって救い主として来られると。神の慈しみの信心やあらゆるご自分の恵みをひとに与えて、ひとが回心するように。それを教会も受けて、教皇ヨハネ・パウロ2世や教皇ベネディクト16世も、神の慈しみを強調して、教皇フランシスコは、みなさんも覚えていらっしゃるように、何年か前に〈神の慈しみの特別聖年〉を宣言しました。その呼びかけが教会の中で広がっているのはとてもいいことです。また再びイエスを迎えるための準備にもなります。

 

そして、イエスは、聖ファウスティナへのもうひとつのメッセージの中で、特別な慈しみのしるしとして、全人類に一遍で自分の心の状態を示してくださるそうです。神の前で神の眼からみた自分の行いを示してくださるそうです。私たちは、死んだら、主の前に出て自分の人生で行われたすべてのことに関して、私的審判で裁かれます。その前に、皆の心が照らされて、ある意味では前もって私的審判のようなことが行われるようです。自分の人生をとおして神さまからみたあらゆる罪などが示されます。それは楽しいことではありませんが、とても大きな恵みです。最後の私的審判のときは、死んだら、もうその裁きを受けるだけです。そこでは変わる可能性がないです。でも、生きている間に、自分の心を示されたら、そこからまた回心する可能性があり時間があるから、多くのひとにとって救いになると思います。もしかしたら、その場で死んで地獄に入ったかも知れないひとが、前もってそれを示されたら、そこで回心して救われる場合も少なくないと思います。

 

ただ、もちろんそれを受け入れる必要があります。主の裁きは、真実で正しい裁きです。間違いはないです。全知全能の神は、誤ること、間違えることはまったくあり得ません。主が示してくださることは、そのとおりです。主は、真実で正しい裁きを行なうかただから、それを素直に受け入れて、回心するのは人間の務めです。いまから私たちは、洗礼者ヨハネも言っているように、主のための道を準備するために、回心に務めるべきです。イエスのメッセージにあるような特別な恵みがいつあるのか、私たちにはわかりません。確かに、その特別な恵みの前に私たちが死んだら、そこで私的審判で裁かれます。

 

いずれにしても、いまからそういう回心の恵みを求めることは大切です。将来何があっても、回心すればそれでまた違います。回心しないうちに、死が襲ってきたらそれはちょっと恐ろしいことです。でも、回心に務めるなら、主の恵みを願って、自分がいくらでも罪を意識して回心できるようにそういう恵みを願うことは、何よりもこのクリスマスの準備になるし、将来何が起こってもその準備にもなるし、そして私たちが願って永遠の命に入るための何よりもの準備になります。