生者と死者を裁く為に来られます

降誕祭前の季節は日本語で「待降節」と呼んでいますが、この季節の元のラテン語の呼び方は「到来」を意味しています。キリスト者は初代教会から主イエズスの到来を待ち望んで祈っています。「マラナ・タ!」(1コリント16章22節を参照。アラム語で「主よ、来て下さい」という意味)私たちもごミサの中で主の祈りを唱えてから毎回「私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」と祈ります。でもこの待ち望んでいる到来は主がこの世に生まれた到来ではなく、世の終わりに栄光を帯びて来られる到来です。待降節の典礼は、この再臨の到来を待ち望むことから始まって、次第にキリストがこの世に生まれた到来の記念(降誕祭)に移ります。

 

 

先月は聖書100週間の第4期が終了しましたが、最後に黙示録を一緒に読みました。参加者の皆さんは口を揃えて「難しい、分かりにくい」と言っていました。書かれたものが現実になったらその本の意味がもっとわかると思いますが、どちらかというと細かいことがわかるより、大体のことがわかって心の準備ができたらよいと思います。そのために教会は黙示録の他に、イエズスや他の使徒たちの言葉を考慮して終末について教えています。私たちは、毎日曜日ごミサの中で主イエズスは「生者と死者を裁く為に来られます」と宣言していますが、カトリック教会のカテキズムはその意味とそのプロセスを668~679番で説明しています。キリストが来られたら最後の審判を行なって救いのみ業を完成させますが、その前に教会もイエズスの受難と復活にならって最後の試練を経なければなりません。その試練は反キリストという悪魔の力を借りている偽預言者の迫害において頂点に達します。この反キリストは混乱に陥った世界で苦しんでいる人々に向かって救いへの道を開くことを約束して、全世界に対する権力を握ってから、全てのキリスト者に巧みにもキリストへの信仰を捨てるように説得してやがて強制します。その為にイエズスは、騙されないように「目を覚ましていなさい」と終末について話している時に警告します。キリストへの信仰を捨てることが条件になっているあらゆる助けは悪魔の罠です。

 

反キリストがいつ現れるかは私たちに知らされていませんが、一つ言えるところがあります。反キリストの登場は全世界に対する権力を握ることが前提だから、私たちの時代まではそれが物理的に不可能でしたが、現在の技術では初めて可能になりました。従ってこれから反キリストの登場が考えられます。私たちの世代ではないかも知れませんが、もうそんなに遠い将来ではないでしょう。