年間第31主日 2023年11月5日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 マラキの預言 1章14b~2章2b、8~10節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 2章7b~9、13節

福音朗読 マタイによる福音書 23章1~12節

 

 

<お説教要約>

 今回もまた、イエズスのファリサイ派や律法学者たちへの批判の言葉があるのですが、現代に置き換えたら、教会の中の指導者、司祭とか司教、教皇に当てはまるところです。ただ、今回イエズスはその言葉を弟子たちや群衆に向かって話したので、指導者だけでなく弟子たちも群衆も、すべてのキリスト信者に当てはまります。

 

イエズスが言うのは、区別ですね。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている、だから、彼らが言うことはすべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」と、まあその区別。本人自身と、与えられた立場や共同体の中の役割、その区別はとても大事なところです。

 

司祭を見るとき、二つの側面がある。人間として信者としての司祭と、奉仕者、教会の中の役割としての司祭という二つの側面がある。人間として信者としては、司祭は他の信者と変わらない。後でキリストが言うように、天の父は唯一、私たちは兄弟姉妹です。そして、教師は唯一キリストです。私たちはみな弟子です。そういう意味では同じです。聖アウグステイヌスも、そのことを当時の信者に教えていました。皆に向かって言いました。「私は皆さんと同じキリスト信者です。皆さんのための司教です」。それを心に留めることが大切です。この両面を考えたら、もっと関係が上手に生きると思います。唯一の御父と唯一の御子がおられるから、それは一番中心になるはずです。司祭中心は過ちです。キリスト中心の教会であるはずです。教会は司祭のものでも、司教のものでも、教皇のものでもない、キリストのものです。それは一つわきまえるところです。

 

教えに関しても、第一朗読のマラキの預言を通して、主は祭司に言われています。教えによって多くの人をつまずかせている、ととがめています。教えに関しては、特に二つの過ちがあると思います。一つは、キリストの教えをあまりにも厳しく伝えすぎると、ファリサイ派にあったような、重荷を人の肩に載せてそれを動かそうとしないという批判にあたるんです。それはどちらかというと、第二ヴァチカン公会議以前の傾向だったのではないかと思う。いろいろな罰とか地獄の話をあまりにも強調して、神の慈しみと愛をそれほど強調しないなら、それは偏ったものです。でも、ヴァチカン公会議のあと、むしろ反対方向に極端に走ったような気がします。今、教会は神の愛と慈しみをよく強調していますが、もっと厳しい面、特にキリストが呼びかけている回心―回心という呼びかけはそれ自体愛の表れですけれどーは、もうちょっと厳しい愛の表れです。でもそれは、福音書そのものの根本的なところです。回心がなければ人間は愛と慈しみを戴けない。回心こそ、愛と慈しみを受け入れることです。それによって人の生き方が変わる。神の愛によって。だから神の愛を拒むことは、いくら福音のメッセージが素晴らしくても、受け入れなければ人間のためにはならないということです。

 

もう一つの側面は、特に司祭を批判したくなる時。司祭も一人の信者、一人の人間であり、同じように弱さを持っています。司祭個人も回心する必要があるのですが、批判するより司祭のために祈った方がもっとキリストのみ心にかなうものです。司祭がもっとキリストに近づいて、キリストに生きて、自分の役割をもっと果たすためです。司祭がもっとキリストのみ心にかなうように役割を果たしたら、それは教会全体のためになるのです。司祭もすべての人と同じように弱い人間です。信者としても完全ではないです。弱さや欠点、罪もあります。でも、特別の恵みも戴いています。叙階の秘跡の恵みと責任です。司祭が死んでキリストの前に立って裁きを受けるときは、一般の信徒の倍厳しい裁きを受けると思うのです。信徒より責任が大きかったら大きいだけ、裁きも厳しいわけです。キリストの言葉通りです。多く与えられた人は多く求められる。それを考えたら、司祭のために祈ることは大切です。批判するより、この司祭が悪い道を歩んだらもっともっと大変なことになるから祈りをもって助けようとする心、それは本当の愛の業です。その司祭自身のためにも教会全体のためにも、一番ためになることです。そういう愛の業をもって、教会はもっと成長してキリストにかなう教会になります。