ロザリオ:悪に立ち向かう平和の武器

11月は典礼暦の終わりの月ですが、それに因んで人生の終わりと世の終わりが典礼のテーマになっています。教会は月の初めに諸聖人と死者の日を祝って、そして主日のミサでキリストの終末的な話を朗読して、最後に「王であるキリスト」の祭日を祝います。今年はこの祭日に最後の審判の話を読みます。

 

考えてみればこの典礼のテーマは現代社会から特に掛け離れたものです。例えば人生の終わりに関して、古代ローマ人には「memento mori」(死を心に留めよ)という諺があって、日本でも「生き身は死に身」という諺があります。ただし、現代社会はこの教訓を忘れて死について考えないようにしています。それは私個人の印象だけではなく、末期癌を患っている患者さんの精神ケアをしている清水先生の観察でもあります。そして清水先生は「死」をなるべく考えないようにする在り方は、現代社会の一つの病理であり、いずれそんな社会は破綻してしまうだろう、と診断しています。この問題に取り組んだ清水先生は「死を見つめることは、どう生きるかを見つめることだ」という結論に至りました。確かに人間は死を見つめなければ真剣に生きようとはしないと思います。

 

でも人間的に考えたら大事だというのなら、信仰の目から見れば尚更のことではないでしょうか。旧約聖書にも「memento mori」の言葉がありますが、その目的は違います。「何事をなすにも、お前の人生の終わりを心に留めよ。そうすれば、決して罪を犯すことはない」シラ書8章36節。それは聖パウロが教えているように、死んだら「私たちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」第2コリント5章10節。死を見つめることはこの人生をもっとよく生きる為ではありますが、何よりも死んだら永遠の命に入る為です。

 

でも「memento mori」は私たち個人の救いの為になるだけではなく、社会に希望をもたらす為にもなります。8月に行われた司祭大会の話し合いの中で、「現代社会は希望のない社会だ」という感想は特に私の心に響きました。それではどうすれば現代社会に希望をもたらせるでしょうか。逆説的でしょうが、キリスト者は信仰を持って死を見つめたら死を越える希望に生きるようになるから、その希望を周りの人にも伝えられるようになります。