年間第29主日 2023年10月22日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

 

第1朗読 イザヤ書 45章1、4~6節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 1章1~5b節

福音朗読 マタイによる福音書 22章15~21節

 

<お説教要約>

ここ3週間は、イエスのたとえ話、当時の指導者に対する批判のたとえ話です。今回、反対者はイエスを罠にかけようという下心をもって質問します。その質問とは、当時、議論された質問でしたが、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。その質問がどういうふうに罠か、註釈にあるようにその背景を考えたらもっとわかるのですが─イエスが納税を認めなければローマ帝国への反逆者となり、認めればユダヤ民衆の信望を失うことになる。どちらにしても、イエスを陥れることになる─当時の背景の中でそういうことになりました。それはひとつの企みでした、人間の思いで。でも、イエスはどちらかと言わずに、次元を変えてもっと主なる神の観点、父なる神の観点から答えています。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。 

 

短い言葉ですけれど、深い意味があります。特に、その意味をもう少し掘り下げる必要があると思います。ひとつは、前半の「皇帝のものは皇帝に」。それは、ある程度わかりやすいのではないかと思います。当時は税金の問題です。現代に置き換えたら、日本ならば日本の政府とその社会に対する社会人としての責任。それには、税金もありますが、法律を守るとかそういう社会の責任を果たすということもあります。たぶんもっと難しいのは後半のところです。「神のものは神に返しなさい」。それは、聖書全体からもう少し考える必要があると思います。

 

まず、私たちは、神にかたどられて造られたものです。皇帝とか政治家とか他の何にもかたどられて造られたわけではありません。主なる神にかたどられて造られたわけです。私たちの存在をはじめとする全て、主なる神からいただいています。その意味では、全部、神に返すべきです。ただ、この中では、神のみ心によって、主なる神が人間を造られたときは、社会的な存在として造られました。他のひとと一緒に住むように。そして、そういう存在としては、当然、他のひとに頼りながら、ひとに対する責任も持っています。そこには、社会に対して返すということもあります。その意味では、団体などは主なるみ心に適うものだから、皇帝に皇帝のものを返すことも、神に神のものを返すことの一部になります。

 

ただ、もっと問題になるのはそれ以外のところです。「神のものは神に返しなさい」と。現代社会をみれば、まず社会そのものは、主なる神を抜きにして動いていると思います。一般のひとの考えでも、政治家の考えでも、神のことはまず頭に入っていないと思います。日本の場合は、神から与えられた掟、十戒のような概念が、神道にも仏教にもないのではないかと思います。そして、いまは、宗教心がかなり薄れてきたから、なおさら世俗的な考え、人間的な考えのレベルに留まっています。それならば、まずキリスト者としては、そのような社会に住んでいる者として、この言葉を理解しにくい面もあると思います。私たちもその影響を受けます。

 

でも、何を返すべきかと言えば、ひとつは、きょうの第二聖書朗読で聖パウロが言う信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐する、信仰・希望・愛。それは、主に返すものです。教会の伝統では、〈対神徳〉と呼ばれています。主なる神自身に対する徳、人間のすぐれたところ、良いところは、神を信じて神に希望をかけて神を愛する心。その意味では、まず社会などは同じような意味で信じてはならないし、同じようなレベルで愛してはならないし、同じようなレベルで希望をかけてはならない。人間的なレベルである程度は何かあるでしょうけれど、絶対的な対象は主なる神であるはずです。

 

教会の伝統では、私たちには二重国籍があると言われています。聖パウロが言っているように、私たちの本籍は天国にあります。自分が生まれ育った国には、この世の国籍を持っています。でも、この世の国籍の場合は、この人生の間だけです。やはり本籍は天国にあります。私たちは最終的にそこに行くように呼ばれています。神のものは神に返すという最終的な目的、主なる神ご自身は全ての究極的な目的です。私たちの存在は、主からいただいているもので、私たちの存在の目的も主なる神です。キリストが他のところで言われるように、まず神の国とその義を求めて、そうすれば全て加えられて与えられます。

 

キリスト者はもちろん自分の社会的な務めを果たします。むしろ、あるべき姿としては、信者でないひとより忠実に果たすべきだと思います。もっと深い動機があります。それは主に喜ばれることだから、進んでそうすべきです。隣人に対する愛の表れです。でも、それは一番深いところではありません。キリスト者であったら、まず神を愛して、神を信じて、神に希望をかけているから、自分の心の底からは、主なる神に仕えています。この世を超えるものです。

 

具体的に、自分の人生の中でそれを保つためにひとつ重要なのは、主なる神のために時間を割くことです。私たちにとって、どれほどそのひとが大切かわかるために、そのひとのためにどう時間を使っているかをみたら、そこに示されると思います。ひとは、本当に大切なものだったら、そのために必ず時間を割きます。いまの忙しい現代社会では難しいことですが、本当に主を第一に、キリスト中心に生きたいと思うなら、主のために時間を割くことです。祈り、ごミサの参加、奉仕、そうした活動を大事にすること。そこから、私たちはもっと具体的に、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返すことになります。