年間第27主日 2023年10月8日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 5章1~7節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章6~9節

福音朗読 マタイによる福音書 21章33~43節

 

 

<お説教要約>

「すべて真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきことを心に留めなさい」

今回はもう一つの喩え話で、先週の喩え話に似ています。同じようなメッセージで、当時のユダヤ教の指導者であった祭司長や民の長老たちに向けられています。彼らに対するキリストからの批判の言葉です。先週キリストは、二人の息子の中でファリサイ人たちは弟のようなものだと指摘されました。彼らは口先だけで神に従うと言いながら、実行しませんでした。ある意味で無関心も指摘されました。娼婦たちや徴税人はヨハネやキリストを信じましたが、祭司長たちは関心を持たず、どういうことかと考えないという指摘でした。

 

今回はもっと広く、無関心、口先のことだけでなく、主なる神に逆らっていると批判しています。ぶどう園の農夫たちは使徒たちを指します。彼らはぶどう園を管理していますが、当然納める賃貸料のようなものを納めていません。納めないのでなく、もらいに来るしもべたちをひどい目に遭わせ、主人の息子まで殺してしてしまうというひどい話です。息子はキリストを指しています。キリストの受難はここでも示されています。ほかの箇所でも受難を予告していますが、今回は喩えの形でそれを示しています。長老たち、自分を殺すことになる人たちにそれを示しています。

 

このような喩えを現代に置き換えると、まず教会の指導者たち、司祭、司教、教皇に当てはまります。現代の指導者たちも喩えの中の農夫たちと同じ誘惑を受けることがあります。神に逆らうこと。教会の歴史の中にはそれがありました。農夫たちはまるで自分たちのもののように好き勝手にふるまっています。これは根本的に間違った態度です。

 

現代の指導者たちも教会を我が物顔で自分のもののように考えることは大きな間違えです。教会は司祭のものでも、司教、教皇のものでもありません。キリストのものです。それが前提です。そう考えるのは聖パウロもコリントの教会に宛てて、「私たち使徒はキリストに仕える者、福音を委ねられた管理者と考えるべき」と書いています。持ち主ではありません。管理者は忠実であることが求められます。忠実にキリストに仕え、キリストの言葉をすべての信者に伝える役割が本来の教会の指導者たちの務めです。しかし司祭も弱い人間ですから皆さんの祈りも必要です。でも、そこでとどまっているだけではまるで他人事になってしまうのでよくありません。

 

この喩えは信者たちにも当てはまることです。ちょうどその逆のことです。聖パウロも言っているように、信者はキリストに仕えるもの、福音を伝える管理者であると考えてもよいと思います。信仰の中で司祭、司教、教皇とのかかわりはどうでしょうか。ある意味で、親と子の関係に似ています。子育ての間、親子関係は子どもの年齢によって変わる必要があります。高校生になった子どもに幼稚園時代と同じ態度を取るのはおかしいことです。うまくいきません。子どもの成長につれて親子の関係は少しずつ変わっていく必要があります。そうしないと子の成長を妨げてしまいます。

 

信者、洗礼を受けたばかりの信者と司祭との関係も変わっていくはずです。洗礼を受けると、最初は司祭に頼るのはある意味で当然です。信仰がまだそれほど成長していませんから。でも、信仰がもっと深まれば次第にキリスト中心になるはずです。どこまでキリスト中心になるか、司祭がかわるときにそれがもっとはっきりと現れます。場合によっては、例えば、主任司祭の異動で、つぎの司祭が気に入らないと言って教会に来なくなる人もいます。これはキリスト中心的でない、司祭中心の信仰で、未熟です。または司祭がかわるとそれまでの司祭と比べて批判したり、悪口を言ったりする現象もあります。

 

確かに司祭も弱い人間で、欠点があり、批判する余地があると言ったらありますが、信仰生活においてそれに左右されるのは間違っています。まずキリスト中心になり、キリストを求め、キリストに従う心を育てる必要があります。そこには司祭の役割もあります。信仰が深まったら司祭抜きにという信仰の在り方はないと思います。この司祭を通して主は私に何を与えてくださるのかという思いを持つべきです。司祭がかわることも主のはからいです。共同体にとっても司祭がかわることは成長する新たな機会になります。そのように受け止めるなら共同体はもっと成長した関わり方になっていきます。

 

私たち司祭も農夫たちのようにならないように祈ることが大切です。同時に信者は司祭、司教、教皇に対する正しい関係を持ち、キリスト中心になって、キリストに従うように努めることです。主が司祭を通して与えて下さる恵みによって、キリスト中心に歩み続けることができるように祈りたいと思います。