年間第22主日 2023年9月3日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミヤ書 20章7~9節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 12章1~2節

福音朗読 マタイによる福音書 16章21~27節

 

 

<お説教要約>

今回の福音の箇所は、先週読まれた箇所の続きです。ここで伝えられている出来事は、先週読まれた出来事のすぐあとのことなので、両方を念頭に置いて考えるともっと深い意味がでてきます。特に印象的なのは、聖ペトロの評価と言いましょうか、イエズスのペトロに対する言葉です。先週イエズスはペトロに「あなたは幸いだ」と言い、ペトロという名前を付けて「天の国の鍵を授ける」と言ったのです。今回イエズスはペトロに、「サタン、引き下がれ!あなたは私の邪魔をする者」と言う。全然違う。どうしてそんな反対のことを言うのかということもキリストは説明しています。

 

先週ペトロは「キリストはメシア、生ける神の子」と宣言し、イエズスは「それは私の天の父が表したことです」と言う。人間からのものではないのです。でも今回、ペトロがキリストに受難を受けてはいけないととんでもないことを言ったら、キリストは「あなたは神のことを思わないで人間のことを思っている」と。実際には言っているのは同じことで、キリストはメシアで生ける神の子の使命がある。ペトロがそれを告白したのが先週の箇所で、今週の箇所ではキリストが生ける神の子である意味と使命を説明しています。自分は受難を受けて苦しめられ殺されて三日目に復活する、そのようなメシアであり生ける神の子であると。つまり、ペトロは「キリストはメシアであり生ける神の子である」と正しく宣言しながら、それを正しくは理解していなかったのです。その宣言自体は天の父が表したものですが、その理解は人間のものです。おそらく多くのユダヤ人のように、ペトロも勝利を収める道を期待していたんじゃないかと思います。昔のダビデ王のようなイメージだったかもしれない…。キリストはそれを人間的な思いだと言うのです。

 

ここでは、私たちに一つ大事な教訓があるような気がします。私たちも信仰を正しく宣言しています。日曜日のミサに参加するごとに、いつも信仰宣言を唱えています。それは教会から伝えられている、聖霊の働きによって書かれた聖書の知恵を簡単にまとめたものです。だから、それを唱える私たちは正しく信仰宣言しています。正しく父と子と聖霊のことを宣言しています。ただ、私たちは正しく理解しているでしょうか?もっと人間的な思いで理解してはいないでしょうか?聖ペトロがしたように…。

 

今日の箇所は特に二つの点において考えられると思います。一つは、キリストがペトロにそのように注意してから、弟子としての姿を話します。その中で二つの命について話します。今日の「聖書と典礼」の注釈にもあるように、この二つの命、この世の命と永遠の命…。イエズスが言うには、この世の命のことばっかり考えたら永遠の命を失う。でも、永遠の命を求めるならこの世の命を失っても永遠の命を得ます。そういう意味だと思います。私たちは信仰宣言の最後に「永遠の命を信じます」と唱えていますが、どこまで神の言っているように理解しているか?人間的ではなく…。その永遠の命を私たちは本当に目指しているでしょうか?それは、私たちが何のために生きているかというところにもつながると思います。信仰の目から見れば、キリストを信じるということはキリストのために生きることです。キリストと永遠の命に向かって生活することを一番大きな目的として、前に置いて生活する。キリストの教えと永遠の命のことは、生活の中であらゆる決定をするときの考え方や価値観の基準になる。でもそれを正しく宣言しながら世間的な思いで暮らしているなら、また違う。そこにズレがあります。宣言することと自分の生活の間に。

 

もう一点は、キリストは最後に自分の再臨のことに触れて、その時それぞれの行いに応じて人に報いる。最後の審判のことです。それも信仰宣言の中で宣言しています。「キリストは天に昇って全能の神である父の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます」と。正しく宣言されていますが、私たちはそれを正しく理解しているでしょうか?このように裁かれることの事実、私たちの人生に対する責任が問われるのです。責任を取ることは社会的にもよく理解されていると思います。たとえば私だったら、主任司祭と幼稚園の園長の責任を負っています。社会の中で当然それを意識しています。ただ、信仰の目で見れば何よりも「キリストの前で責任を取る」ことを意識して生活することです。そしてそれは恩人に対するような思いではなく、キリストが私たちに与えられた大きな恵みを意識して責任を果たすことだと思うのです。

 

ここで一つの映画の場面を思い起こしました。一昔前アメリカで作られた第二次世界大戦の映画です。その中で一人の兵士は仲間が危ないところを助けて傷を負い、助けてあげた兵士に「善い人生を送りなさい」という言葉を残して死んでしまう。それは、助けられた人に対して凄い重みのある言葉です。命の恩人から言い残された言葉…。映画の最後の場面で何十年もあと、助けられた人が老年になって助けてくれた人の墓参りをします。その墓の前で涙を流しながら恩人に問いかけます。「私は善い人生を送ったでしょうか?」と…。もしそのような自分の人生に対する責任を、この世の命の恩人に対して負っているとすれば、永遠の命の恩人であるキリストの前ではなおさらのことではないでしょうか…。