恵みを恵みとして受け入れること

聖体拝領前の信仰の告白に関して、どうして去年の秋に決めた言葉をこんなに早く再検討するかについて、「おとずれ」2月号の巻頭言で説明しました。その後で何人かの意見を聞いたら、規範版に載っている百人隊長の言葉、すなわち『主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。お言葉を頂くだけで救われます』(マタイ8:8を参照)の場合は、ある人は特に「ふさわしくない」と表現するところに引っかかると感たようです。ただし、どうして引っかかるかはよくわかりませんでした。

 

6月に大船教会で横浜教区典礼委員会が準備した動画を視聴して研修会を行いました。岡野神父様は話の中で聖体拝領前の信仰告白が二つになった背景を説明しました。第2バチカン公会議の後でごミサを日本語に訳する翻訳委員会は、規範版の言葉(百人隊長の言葉)を「ご聖体拝領から遠ざかるような言葉」と考えたそうです。「一方で自分をふさわしくないと認めるのは謙遜なことであるが、他方でそれでも頂きますというのは、日本人的な心情としてはつながらない。日本人の場合は、招いて頂いてありがたいですし、頂きたいのはやまやまですが、私はやはり至らないので遠慮しますということになるだろう。これを考えると『主よ、私はあなたをお迎えするに・・・』という言葉は拝領前の信仰告白としては日本人の心情としては合わないということで、ヨハネ6章のペトロの信仰告白『主よ、だれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神からの聖なる方です。』(ヨハネ6:68-69を参照)を中央の典礼委員会で検討し、聖体についての弟子たちの信仰、そして、初代教会信仰を端的に表す答えなので、これをもとにローマの認証をとったものです。」

 

岡野 神父様の話を聞いたらよくわかりました。ただし、その「矛盾している」と感じるところには、キリストを信じるには根本的な態度が示されています。「至らないので遠慮します」というのであれば、主の恵みを、恵みとしては受け入れないことになります。人が至らないからこそ、ふさわしくないからこそ、恵みになるのです。恵みとして受け入れる態度は、岡野神父様は百人隊長の言葉を通して次のように説明しました。「一方では自分に主を拝領する資格が全くないことを認め、それと同時になお、イエズスが私たちを召し出し、癒して下さるに違いないという信頼をイエズスに表す。そしてイエズスは私たちの為に十字架に掛かられたように、ふさわしくない私たちにご聖体の形で『食べなさい』と来て下さり、私たちと一つになって下さる。ご聖体を頂くたびに返しきれない恵みを頂いている。キリストの方から私たちを招いて下さり、共にいて下さる。」