年間第17主日 2023年7月30日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 列王記上 3章5、7~12節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章28~30節

福音朗読 マタイによる福音書 13章44~52節

 

 

<お説教要約>

今日はその先週と先々週の続きのところです。このマタイによる福音の十三章、天の国についての例えが集められたところです。今日はその最後の部分です。そしてここには下の注釈でもあるのですが、「イエズスの語る天の国とはいわゆる天国のようなものではなく神との交わりそのものである。」それも大事なポイントだと思うのです。この例えを理解するために今日の例えは二つと同じようなものです。見つけた宝と見つけた真珠その大切さ、そしてそのために他のものを犠牲にする、そういう覚悟というか心その話をしています。そしてその宝と真珠は天の国に例えているのです。神との交わりそのものである。天の国はそれだけ大切なものである、と。

 

このことは一つの話を思い出す機会にもなります。だいぶ昔のことでしたけどある婦人の方のお話です。その人は長い間、自分の心の中で何かモヤモヤしているものがあって何かを求めて落ち着かないような感じでした。自分としてはいろいろな宗教も考えたのですけど、でも自分に言い聞かせて、まあ日本人だから日本人に合うような神道や仏教をそこで求めるようになったのです。でもどうもいくらそこに行っても自分が納得できる、求めているものを見つけられなかったのです。でもそこでちょっと考え直して教会の方に来るようになったのです。

 

そしてしばらくしたらすごい恵みをいただいたのです。本人の表現では”棚からぼた餅"と言ったのです。急にその素晴らしさというかイエズスの恵み、その愛、神との交わりそのもの、そういうことを感じたそうです。そしてそれは大きな喜びになったのです。ですからキリストがここで話しているはそのようなことだと思うのです。そこで考えるのは全ての人が同じような経験することは無いと思うんですね。今まで私は何人か信仰に入る人の指導に当たったことがあります。その様子を見ると多くの人が教会に近づいて信仰が芽生えて、それに伴って多くの人が心がもっと平和に、もっと穏やかになって自分も明るくなったとかそういう変化と幸せが見えます。でも多くの場合、大きな喜びが急に湧いてくるような、そんな事はあまり見なかったんですね、この人たちのうちに。キリストが言われているように、そういう突然宝を見つけた人も真珠を見つけた人も大喜びです。そして自分の人生はそこで多く変わったのです。全ての持ち物を売ってそれを手にしたのです。一番求めているもの…そこまでそんなに多くの方はないような気がするのです。でもそれと同時にそれはまた先にあると思うのです。というのは最初にそういう経験をしなくても信仰の歩みを続けるなら確かに喜びが増していきます。ただそこではちょっと誤解されるところもあると思うのです。ある方は信仰が深まったらもっと喜びを感じる、幸せになるとそう思いがちなのです。信仰が深まると周りの人との関係とか、全てが理想的に運ぶと思う人もいるのではないかと思います。でも実際にはキリストが教えている信仰の歩み=ご自分についてくるように、と言われているのは“十字架を背負ってついて来なさい”ということだと思います。教会の経験とか聖人の経験から考えると信仰の歩みが深くなるにつれて確かに喜びも増します。でも苦しみも増します。同時に。

 

やはりキリストご自身が歩まれた道を私たちも歩むことになるのです。キリストの道は受難を通して復活の栄光に入る道です。だから苦しみも喜びも同時にある道なのです。ただそれはひとつ誤解するところです。あともう一つあるような気がします。というのはここでは三つ目の例えもあるのです。人が湖で網を打ち下ろして、色々な魚を取ってそして分けます。良い魚悪い魚この例えば先週の麦と毒麦のたとえと同じような意味です。そういう最後に分ける、世の終わりに良いものと悪いものとを。でもそれを考えたらもしかしたら他の誤解もあるではないかと思うのです。というのは神様私たちを幸せにしたいと望んでおられます。喜びを与えたいと望んでおられます。でもある人は自分としてはそれ程それを望まなくてもいいんじゃないかと思うかもしれません。でも実際にはそういうような状態ではないのです。例えば誰か私に無償ですごいお金をくれたりとか、何か旅行に連れて行ってくれたりとか、そういう親切な人そういうように感じる人もいるのではないかと思うのです。でもキリストの例えを考えたらむしろもっと違う状態です。キリストが言うには確かに神は大きな喜び、幸せを与えたいと望んでおられます。でもそれは死にかかっている人に対するような行為です。

 

人が海に落ちたら誰かが舟で寄ってその人にその綱を投げて、そして「どうぞそれをつかんで!海から引き上げます」と言うでしょう。そこで落ちた人は「いや私は大丈夫です」とは言わないと思うのです。そして多分感謝してそれを受けいれると思うのです。私たちはむしろそういうような状態です。“滅びに行く”その恐れもあるものです。でその意味ではキリストが与えるそういう喜びは神との交わりそのものです。いわゆる取っても取らなくてもいいようなものではなく、取るべきものなのです。どうしても取りなさい、とキリストが呼びかけかけているのです。そうしなさいと警告しています。でもどうして神様がそんなに優しいなら、どうしてそういう警告をするのですか。実際には神様はご自分のうちにだけ喜びを与えられます。神様はご自分をおいて人に喜びを与えるになることはあり得ないのです。神様は創造主です。人間は神様が作られたのです。私たちはどういう風に幸せになるのか、神様は定めておられます。

 

ご自分のために私たちを作られた、だから人間の幸せ・喜びは本質的は神様との交わりのうちにだけ完全に実現するのです。他には可能性はないのです。神様にもそういう可能性はないのです。ご自分以外の幸せは神様でさえ与えられないです。神様がご自分の計画を変えることはなさらないのです。他の神様の幸せなどあり得ないのです。私たちはそういう状態です。そのためにも主を求めて信仰の歩みを続けることはやはり私たちの幸せ、喜びでもあるし、でもそれと同時に私たちの救い、滅びからの救いも私たちの喜びにもなるのです。