年間第16主日 2023年7月23日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 知恵の書 12章13、16~19節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章26~27節

福音朗読 マタイによる福音書 13章24~30節

 

 

<お説教要約>

今日はイエスのもう一つのたとえ話です。先週の種まきのところと似ているところがあります。今回は二つの種まき。良い種と悪い種、麦と毒麦を一緒に育って最後に分けるというたとえです。キリストはなぜこのたとえを話したか。当時のことを考えてみたら背景が分かる。たとえばファイサイ派は一般のユダヤ人から離れて自分たちこそ一番神さまに忠実につかえているものだと、すでに分けているんです。良い人と悪い人。そして一般のユダヤ人をかなり見下げていました。いわゆる熱心党はマカバイ派のやったことにならおうとして、反乱をおこして自分のほうから行動を起こしたら、神さまはマカバイたちを助けたように自分たちも助けてくださるだろうと思いこんだのです。神さまのご計画を考えず自分の思いでやったのです。いずれにしても救いの日を早めようとしたのです。キリストはそのような流れがあったから、このたとえを話されて「違うよ」と伝えたのです。

 

今の世のありさまは、前もって分けることはしない。良いと悪い、今のうちの裁きはこの世にはっきり表れない。そういうことを伝えています。麦と毒麦を一緒に育つようにする。今は良い人と悪い人を一緒に暮らすようにして区別をしめさない。なぜかというと第一朗読にしめされているように、主の力は無限の力です。望みのまますべておできになる。だからこそ主は寛大に私たちを裁きます。忍耐をもっておられます。でもその忍耐は人間がしていることをすべてよしとする意味ではない。聖ペトロが説明しているようにその忍耐は私たち人間が回心するチャンスを与える忍耐です。その意味で、主がいますぐ裁きをあらわさないからといって、大丈夫だと自分の好き勝手にできると思ったら危ないです。イエスはたとえの中ではっきりと言っています。今のうちは裁きははっきりあらわれない。でも最後に必ずあります。必ず分けます。良い人悪い人を。最後の審判をさしています。羊をヤギをわけるように、人間も良い人は天国いって、悪い人は地獄に落ちる。

 

そこで、私たちの守護聖人聖アンナに倣うところでもあります。聖アンナは主に忠実につかえながら、救いの日はみなかったと思います。主の偉大な恵みによって、神の母 聖マリアの母親になったのです。愛する娘を通して救い主がこの世に来られたのです。キリストが生まれるところまで見たかもしれないが、成人して宣教活動する頃には、もしかしたら亡くなっていたかもしれない。 いずれにしても旧約時代からの信仰、神さまに対する信頼、主に希望をかける態度。信頼を生きていく方だと思います。それも私たちに対する模範になります。信頼。今のうちに人を分けない。だから私たちも先走らないで、人を裁かないようにして、私たちも主に倣って忍耐して、色々なことを大目に見て。特に人の回心することを考えて、その人のために祈るべきだと思います。

 

それと同時に変な安心、間違った安心もあります。もし人が私はいい人だから神さまは私を天国に受け入れると思ったら、それは自信過剰です。自分のことは自分でそこまで詳しく知ることはできないのです。そして問題は、自分はいい人だからと思ったら、神さまより自分のことを信頼していることになる。でも元々の信仰にもとづく安心は神に対する信頼の安心。むしろ私は罪深いものですが、主なる神は忍耐強い方です。いつくしみ深いです。全能の神だから寛容をもって裁く方だから、それが私の希望です。救われること、希望を主にかけます。それだったら主に信頼することになるのです。その態度は私たちがもてるような安心です。もっと健全な信仰に沿う安心になります。それがこの箇所からの教訓ではないかと思います。

 

7月26日は聖アンナのために特別なミサを捧げますが、この日来られない方のために今日聖アンナのことも記念して、私たちも聖アンナと同じ心を持てるように聖アンナの取り次ぎを願いたいと思います。