年間第12主日 2023年6月25日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミヤ書 20章10~13節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章12~15節

福音朗読 マタイによる福音書 10章26~33節

 

 

<お説教要約>

今日はマタイによる福音を読み続けてるところでしたが、この箇所は特に大きなテーマです。恐れについての主の教えです。それは人生の中で大きなところだと思いますが、だれでもある程度は経験していると思います。特に関連することも考えたら、恐れ、緊張、心配、不安、そういう類のものが全部関連しています。さまざまな対象もあります。例えば、怪我とか、事故、病気、または特に死ぬことに対する恐れが大きいと思います。体の方だけじゃなくて精神的な面もあります。今日の福音書ではキリストは両方について話しています。

 

 

そして特に自分に関して、自分のことで、人々から受ける被害というか、襲ってくるか、または言葉でのこととかを話しています。自分がキリストを信じてるということで他の人の反応は確かに見えると思います。特にこの日本においてキリストを信じているものはごく少ない中で、他人が自分はキリストを信じている人だとわかったら、どういう反応するかと心配することはよくあると思います。場合によっては今まで付き合ってきた人は、自分がキリスト者ということが分かったら、態度が変わってもしかしたら批判してくるか、または逆にとても興味を示して自分にいろいろ信仰に関する質問をしてくれば自分がどうやってそれに答えるか、そういうような不安とか心配のこともあるのではないかと思います。

 

その場合、キリストははっきりと人々を恐れてはならない、体を殺しても恐れない、恐れてはならない、そして批判とか、いろいろ他のことでも恐れてはならない。でもどうやってキリストの教えに従うか、感情のところはそんなにコントロールできないです。一つ大事なところは人間にとっての感情。感情は人間はその動物と共通のところです。まずその基本的なところです。というのは動物も恐れ、怒り、嬉しさ、楽しさ、いろいろな感情は経験します。私たちも動物を見てわかるのです。人間にはそういう本能的なところも確かにあります。急に何か危険なことがあったら人間は自然に怖くなります。

 

でも人間には理性というところもあるのです。感情は自分の受け止め方、考え方、捉え方によってずいぶん変わってきます。どういう風に考えているかその感情、感情を変えるにはまたは今日みたいにキリストの教えに従おうと思えば、まず自分の聞きとめ方、捉え方、考え方を見つめる方が効果的です。例えば簡単な例として、もし駅で電車を待ってる間向こうのホームに友達を見かけて遠くから挨拶したのに、その人は何の反応はないというような場合は、そこで自分がどう考えているかによって感情が変わってきます。ただ気づかなかったと簡単に思ったらま簡単に済みます。特別な感情はないです。でも私を無視している、もしかしたら先日のあの事件でまだ怒ってるんじゃないか、いろいろ思いめぐらしたら、だんだんイライラするようになって、もしかしたら次に会う時はきつい言葉を言ってしまうかもしれないです。でも実は全く同じです。その感情の違いは自分の捉え方、聞きとめ方、考え方によるです。

 

でもそれだったらやはりキリストの教えに従うために恐れてはならない、教え、感情、キリストの教えに基づいた考え方捉え方、受け止め方を身につければ、それでもっと従うことになるのです。それは自分が選択できるところです。感情は反応的なものだから、感情そのものを選択する対象ではないです。今日の箇所はキリストは考え方、受け止め方を示しています。まずこう考えるべきだと思って。例えば、信者ということでいろいろ批判とか噂などいろいろなこと言われてもそれは一時的なもので、最終的に全部明らかになります。不正な批判でも最後の審判の時は全部明らかになります。何も隠れることはないです。

 

万一もっと被害とか体を殺すまでのことでも、でも体の命は一番大切ではないのです。人間はどうしてもいずれ死を迎えます。それもキリストは何回も強調するところです。一番大事なのは、永遠の命に入るか、永遠の滅びに入るか、そういうこの世を超える命と死の世界、そこは比較にならないほど大事です。この人生の間いくら楽しく色々の良いことがあっても、最終的に永遠の滅びに入ったら何のこととも思わないです。何の慰めにもならないです。逆にこの世でいくら苦しめられても、天国に行ったらその苦しみもなんとも思わなくなるのです。かえってその苦しみがあったら、自分の喜びも増していくぐらいです。それだけそれはまず何よりも大事にすべきところです。

 

それに続いて教えてるところは、主なる神のはからい、いつくしみ、雀のことでも髪の毛まで一本でも数えられているところで、神様はすべて見ておられます。全能の神だとすべてをお出来になります。主なる神に対する信頼、信頼することを強めるなら、それが自然になります。それは小さい子供でもみえます。小さい子どもだったら親のそばだったら安心します。新しい環境でも親さえいればもっとその環境に入りやすいです。この親の関係は安心です。信頼関係があります。私たちは主なる神をもっと信頼するようになります。それで私たちもあらゆるこの世の出来事の前で主が教えているように、恐れない、びくびくしな心にもなれます。それは今日特に私たちに主が教えてくださる大事なところです。人間は恐れを自然に感じます。でも信仰の歩みを続け主にますます親しく結ばれるようになったら、その恐れが減ります。最終的に主のもとに天国に行けば恐れは全くないです。ただ喜びと平和だけがあります。