年間第11主日 2023年6月18日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 出エジプト記 19章2~6a節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章6~11節

福音朗読 マタイによる福音書 9章36~10章8節

 

 

<お説教要約>

今日の福音の箇所は、キリストがまず群衆を見て憐れに思われたことで始まります。群衆は“飼い主のいない羊のように”弱り果てていました。この民を救うために主は来られたのです。これを見て主は「収穫は多いが働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」、と言われました。

 

つまり、収穫が多いと言うところから始まったことになります。これは実際に神の愛、慈しみ、罪の赦しを待っている人が多いと言うことです。現代の社会ではそういう感じがしないかもしれませんが、実は人は誰でも心の奥底で、意識しないうちに主を求めているのです。人間は神に向けられ、神のために造られ、神の内にのみ真の幸せを見出すことができるからです。神への憧れが心に刻み込まれている、と教会の「カテキズム」にも書いてあります

 

以前、私は印象に残る話を聞きました。幼稚園の先生でしたが、、生まれ育ったところは宗教にもキリスト教にも関係ない環境でした。大体一般的な日本の家庭のように。この人は幼稚園で働きたいと思い、就職口を探したところ、行き着いたのはカトリックの幼稚園でした。そこでは職員たちのために聖書の時間がありました。これはとてもつまらないと思いながら、でも仕事の一部だからと思って参加していました。ところが或る時、ルカ福音書の受難の箇所が読まれ、キリストがご自分を十字架に架けた人のために祈ったと言うところを聞きました。キリストが「彼らは何をしているかわからないのですから赦してください」と祈ったと言う箇所です。この人はこれにすごく強い感銘を受け、「これこそ私が一生懸命に探していた人だった」と思ったそうです。でもその人はそれまで自分が探していたとは意識していなかったと思います。意識していなかったけれど探していたみ言葉との出会いで、み心が現れて、自分がキリストを求めていたことを初めて意識したのです。こういう人は日本では多いと思います。でも、それにどうやって気づくか、そこが一つの問題点です。

 

キリストは12人の弟子を派遣しました。ご自分の教えを伝え、奇跡を行なう権能を与えられました。「天の国が近づいた」というメッセージを伝えるようにと。私たちは、司祭、修道者の召命を祈ります。彼らは使徒職の大事な働き手ですが、第二ヴァチカン公会議は、全ての信徒が宣教の使命を持っている、と教えています。信徒はミサでご聖体を頂き、キリストご自身、そして司祭を通して派遣されます。家庭に、職場に、親族に、友人たちに派遣されます。キリストを証しする使命を受けていますから。司祭や修道者と違って、多くの人はそれほど遠くまで派遣されることはないでしょう。その意味でも一般の人たちは信徒を通してキリストを知る機会がもっとあると思います。

 

そのために信徒自身の態度が大切になります。聖パウロは説明して「キリストによって私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して和解させていただいたからです」と言っています。“和解させていただいた”、ここが大事です。まずキリストを誇りとすること。和解させていただき、恵みを受けたのですから、感謝して神を誇りとするのです。この態度を持っている人こそ自然に、接する人にその態度が伝わります。キリストの名を口にしなくても態度そのものがキリストを伝えることになります。私たちが受けた使命はこれです。

 

今日キリストは私たちにこれを呼び掛けておられます。今は信仰とキリストへの思いを新たにする機会です。キリストを恥としないで誇りとするように。恵みを受けているのですから誇りであり、自分の功徳ではありません。ですからそのような誇りは謙遜で、周りの人に伝わっていくのです。