キリストの聖体 2023年6月11日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 申命記 8章2~3、14b~16b節

第2朗読 コリントの信徒への手紙1 10章16~17節

福音朗読 ヨハネによる福音書 6章51~58節

 

 

<お説教要約>

今回の祝いは、キリストの聖体の祝いです。わたしたちの信仰生活の中で非常に中心的な神秘です。多くの祝いは、何かの出来事─キリストの受難、復活、昇天、聖霊降臨。でもきょうの祝いは出来事というより、ひとつの神秘の祝いです。キリストが最後の晩餐で制定された、ご自分の聖体を与えたこと、聖体の秘跡を定めたわけです。きょうの朗読をみれば、特に今回のテーマとしては、命。命は、キリストご自身が言われているように、自分の肉を食べ、血を飲まなければそのひとに命はない。でも、食べたら永遠の命を得る。最後の日に復活すると、キリストは復活させると約束しています。

 

その前の前表と言えば第一朗読のマナのこともあるんです。キリストがほかのところで言われているように、それはひとのこの世の生命を持ち続けるためのものでした。実際に奇跡的なものでした。荒れ野の中で、それによってイスラエル人が主なる神に頼るようにという教訓も含んでいました。何も無いところ、荒れ野、恐ろしい、広くて、水の無い乾いたところで、そのようなところでも主がイスラエル人の命を支えてくださったんです。そういう奇跡的なもの。それはやはり、主なる神はすべての命の源です。命の主です。

 

イスラエル人、または新約聖書においてもそうですが、この命という言葉はもっと広い意味です。生命を持ち続けるということだけではなく、あらゆる良いもの─健康、豊かさ、幸せ、喜び。旧約時代は、命をお与えくださいと、命をあらたにしてくださいと、イスラエル人はよく祈ったんです。あらゆる良いものが含まれていました。日本語の表現にも、“生きた心地もしない”というような表現にあるように、命と言えば、生命を持ち続けるだけでは物足りないんですね。ほんとうの命は、もっと広い意味です。

 

でも、新約時代になって、“永遠の命”と言われる。特に聖ヨハネの場合は、永遠の命とは“救い”という意味にもなるんです。キリストが命を与えるという表現は、キリストが救ってくださることとほぼ同じような意味になるんです。永遠の命は、良いものだけではなくて、この世を超える完全な幸せ、神さまのもとで復活させていただいて、主のもとで愛のうちに永遠に生きるという完全な喜び、平和、愛の世界のことを指しています。そして、わたしたちがそこに行くために、キリストがご聖体、つまりご自分の体と知恵を与えてくださったんです。

 

だから、昔から教会の中で、このご聖体の秘跡には、“不死の妙薬”という表現が使われてきました。死なないための、何よりもの効果的な薬。あらゆる病気を治すだけではなくて、悩み、苦しみ、それらを取り除くだけではなく、死そのものを癒す。もちろん、わたしたちは体の死を経験します。でも、死をとおして永遠の命にはいることによって、死も完全に癒されます。特に体の復活によって、復活された体は、いまの体と違ってずっと永遠に生きるものになります。そのときの体は、体そのものというより、聖パウロが言っているように、“霊の体”です。聖霊に支えられて、神ご自身の力に支えられている体だから、命の源である神が支える体は、永遠に生きます。永遠の命を持つようになります。

 

これが、きょう祝っている偉大な神秘です。でも、ここであらためて感じることですが、この偉大な神秘、恵みの前で、わたしたちの態度はどうでしょうか。というのは、わたしはよく思います。主なる神が与えたいと望むものほど、人間は受け取ろうとしないところがあると思います。たとえば、命と言えば、人間は自然に命を求めます。生き続けたい、死にたくないです。でも、その命をどこまで求めるか。この世の命の良いものだけに限って求めるなら、それでは主の前で物足りないです。主はそれよりもっと与えたいと望んでおられます。でも、人間が望まなければ、求めなければ、そこまで行きません。

 

そのためにも、わたしたちはひとつ自分の態度を振り返ることになります。これだけ偉大な神秘、これだけ主の大きな恵みが与えられている中で、わたしたちはどこまでそれを本当に大切にするか。ミサの参加もそのひとつです。やはり、主なる神はどこにでもおられます。キリストはどこにでもおられます。確かに家で祈ることもできます。むしろ家でも祈るべきです。ただ、家ではご聖体をいただけないんです。そこが大きな違いです。キリストが言っているように、命、主が与える命をわたしたちは求めているか。または、それより自分が望むような良いものを優先させるか。そこのところです。もちろん、ほかの生活のためのものを求めるのは当然ですけれど、それにもまして、それを超えて、まず主が与えたいと望むものを求めるべきだと思います。そこは、わたしたちは振り返って考えるところだと思います。

 

特にこのご聖体の祝い日において、教会は、確かにわたしたちにその意味や大切さをもっと理解してもらうためにこのご聖体の祝い日を設けたんです。そういう目的をもって、きょうこそわたしたちは自分の態度を振り返って、自分がこれからもっとご聖体を大切にするように。それはこの祝い日にふさわしいことです。