復活節第4主日 2023年4月30日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 2章14a、36~41節

第2朗読 ペトロの手紙1 2章20b~25節

福音朗読 ヨハネによる福音書 10章1~10節

 

 

<お説教要約>

復活節第4主日は「良い牧者の主日」と呼ばれています。毎年、ヨハネ福音書の10章「キリストは良い牧者」というたとえを読みます。今日の箇所はその初めのところです。ここで一つ大切なところは、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」、そういうキリストの声について行くことです。それは信仰生活の基本的なところです。

 

聖ペトロが第2朗読で言っているように、キリストの声に聴き従わなければ私たちは迷ってしまうのです。迷っている羊のように…。羊は弱いものだから、迷ったら狼に襲われて殺されてしまう。だから、キリストの声に聴き従うことは非常に重要です。でも問題は、キリストの声だけでなく他の声も周りにいっぱいあるということ。教会の伝統的な考えによると、キリストの声の他に誘惑する声もあり、その声は特に三つのところから来ると伝えられています。たぶん一番大きいのは、自分の心の欲張り、傲慢、自己中心的、そういう悪い心からの声が何よりもの誘惑だと思います。二つめは、周りの人や世間からの声、誘惑です。日本のように信仰に生きている人が少ない中で、やはり世間の声はキリストの声とは違うんです。違うことを勧めたり、違うことを大切にしたりするところがかなりある。特に今の情報化時代の中で、世間の影響は昔に比べてうんと強くなった。私たちはそれに溢れ溺れるほど囲まれている時代に生きています。三つめは、悪魔の声です。悪魔は直接誘惑することもあるけれど、多くの場合は世間を通して又は自分の悪い心を通して誘惑してくることが多いと思います。直接というより、そういうものを利用して。いずれにしても、誘惑に陥らないようにキリストの声に聴き従う必要がある。でも、どうやって聴き従うか?その区別は重要な課題です。

 

ここで一つ取り上げるのは、聖書に親しむことです。聖書は聖霊の働きによって、キリストの言葉と思い、神のみ言葉を忠実に私たちに伝えています。聖書に親しむなら、キリストの言葉の味、み言葉の味がもっとわかるようになります。たとえば本をたくさん読んでいる人なら、好きな著者の文章を見つければ名前が書かれていなくても、あ、この人の文章だとわかるんです。その味、感覚、書き方からわかる。それに似たようなことです。聖書に親しむ人は自分の考えがキリストの思いに近づくので、キリストの声とは違う声を聞いたら、あ、これは違うと。理屈で分析するより、感覚でその味でわかるわけです。でも聖書に親しまなければ、そこまで感覚は鋭くならないのです。もう一つは、人は悩みがあるとき他の人に相談することがあるけれど、相手がどういう言葉を与えるか気をつける必要があります。特に自分が何か悩んでいるときは、慰めの言葉、自分の気持ちに合うような言葉を求めがちです。相手が優しい人ならそうしてくれるかもしれない。でもそれだったら、相手はこちらの気持ちを基準にして助言を与えるので、キリストの言葉を基準にしていないことが多い。キリストに聴き従う人にとって、キリストの声は愛に溢れた喜びの声でしょうけれど、自分の気持ちに合わないようなところもある。それは私たちの成長のため。それもまた気をつける必要があります。祈り聖書に親しむことによって、キリストの声と他のものの声との区別がもっとできるようになるのです。

 

この「良い牧者の主日」には、もう一つのテーマがあります。キリストは第一に誰よりも良い牧者です。でも、キリストご自身は人としてみ心の計画として、教会の中で自分の名によって司牧する人も立てられました。特に司教とそれに協力する司祭を。だから、この日は「世界召命祈願の日」にもなっています。大船でも召命を願って祈っています。特に一粒会の活動で、共同祈願に取り入れています。それも大切なこととしてぜひ勧めたいと思いますが、一粒会の活動の説明を見れば、召命が与えられるように祈ることと、もう一つは司祭の聖成のためです。司祭が聖なる者になるように祈ることもすごく大切です。司祭の働きは数だけではない。司祭がいくら多くても、キリストの声を忠実に伝えていなければ逆効果です。司祭は多い方が望ましいけれど、特に何よりも忠実にキリストの言葉を伝える者になってほしい。それはキリストの望みでもあるのです。

 

特に今日、私たちは自分ももっとキリストの声を聴きわけるようになって、もっと進んでキリストの声についていくように、志と言いましょうか、そういうことを目指しながら、私たちがそうするように忠実に導いてくれる司祭も主が与えてくださるように、一緒に祈りたいと思います。