復活節第2主日 2023年4月16日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 2章42~47節

第2朗読 ペトロの手紙1 1章3~9節

福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節

 

 

<お説教要約>

きょうは復活祭から八日目になる主日です。ちょうどキリストが復活して八日目の出来事も読まれます。

まず、キリストが最初に現れたとき、ひとつ印象的なところとして、キリストは弟子たちに二回も、「あなたがたに平和があるように」と挨拶しています。弟子たちは、迫害などを恐れて、閉じこもって、戸に鍵をかけてあったそうです。かなり不安でもあったと思うんです。だから確かに平和が必要でした。でも、そこに「あなたがたに平和があるように」と二回も言うことで、平和の大切さ、その平和はキリストの復活の恵みでもあると伝えていると思います。平和と言えば、だいたい皆が憧れていると思います。特に、世界が平和になるようにと多くの人たちが願っているところです。

 

でも、世界はなかなか平和にならないんです。なぜかと言うと、世界が平和にならないのは、人間の心に平和が無いからです。どうして人間の心に平和が無いかと尋ねるなら、人間と神さまの間に平和が無いです。人間は神さまから離れて、神さまとの間は平和でなくなったんです。それもまた恐れ。アダムとイヴの罪の場面、原罪のところを読むと、アダムとイヴが罪をおかしてから神が近づいたことに気づいて、最初の反応は、恐れて隠れていました。それは、神との間に平和が無いことの最初の現れです。でも、そういう神との平和が無い人間には、心に恐れのほかに疑い─きょうの聖トマスみたいなところも出てくるし、それに怒り、妬み、あらゆることで人間が自ら苦しんで、人間関係によって平和にならないという現象が起きます。

 

でも、キリストは平和をもたらすために来られたんです。その一番おおもと、神との間に、聖パウロが言っているように、キリストは十字架によってわたしたちを神と和解させてくださったんです。人間と神の間の平和を取り戻したんです。そして、復活によって、聖ペテロが言っているように、神との間に平和をもたらして、いきいきとした希望を与えてくださったんです。その希望も、平和につながるものです。希望、平和、喜び、それらは全部、聖霊の実りでもあるんです。ずっとつながっています。おおもとは、神との関係にあります。そういうことを考えると、ほかの聖書の箇所を読むと、たとえば、平和の実現として、きょうの第一朗読で、初代教会の共同体の有り様を描いています。それは、平和が人間の間に実現するときの人間関係です。お互いに思いをひとつにして、物も共有して、皆の間の平和、それにともなう喜び、感謝、主を賛美している様子は本当の平和な社会です。

 

でも、そこまですぐにならないかも知れない。と言うのは、キリストが平和を約束されたとき、最後の晩餐のとき、付け加えたんです。世が与えるように平和を与えないと言ったんです。世の平和と違うものです。聖ペテロもそこに触れています。最初のキリスト者は、いきいきとした希望をいただいて、とても喜んでいました。でも、聖ペテロも付け加えています。「今しばらくの間、いろいろの試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。だから、そういう試されるところはあるんです。

 

世の平和は、まったく何の不自由も問題も無い平和。でも、キリストが与える平和は、もっと深いところです。イメージとしては、海のことを考えたらいいと思います。たとえば、台風が来ると、高い波が出て海は非常に荒れますが、海の深いところに沈んでいけば、とても深いところでは、水はほとんど動いていません。それは、信仰にもとづいて試練に耐えるキリスト者の心のイメージです。その外では、いろいろ周りに試練など悩みがあるとしても、心の奥深いところに平和がまだあります。そして、それは心の拠りどころ、支えになります。それは、世が与えるような平和と違う、キリストが与える平和です。そのキリストの平和は、わたしたちにも与えられています。聖トマスのように疑いを感じることもあるかも知れないですが、それもひとつの試練です。それも信仰がもっと本物と証明されるためです。疑いをとおして、わたしたちの信仰も成長します。

 

特に、きょうの日は、この与えられた大きな恵みを教会がそのために主を賛美しています。また喜びの日です。と同時に、この喜びを心に留めて、悩みとか試練に遭うときでもそれに支えられて生きるように、そうすれば、わたしたちの心の奥深いところはいつも平和になって、わたしたちも主と共に過ごすことになります。