回心の歩み、喜びへの歩み

灰の水曜日に祭壇の前に置かれた枝は枯れていましたが、今は祭壇の前の枝は芽を吹いています。皆さんはいかがでしょうか。皆さんの四旬節の歩みは芽吹いていますか。灰の水曜日の灰の式に参加ができた人は、頭の上に灰を受けて「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と言われました。これは四旬節の歩みを豊かにする為に心に留めるべき言葉です。自分が死ぬ身になっている事実から目を逸らさないことは、信仰の歩みを深める為の大事なカギです。教会の教えでは、私たちが死んだらキリストの前に出て、自分の人生のすべてが明らかになって、裁きを受けます。

 

「神の御前では隠された被造物は一つもなく、全てのものが神の目には裸であり、曝け出されているのです。この神に対して、私たちは自分のことを申し述べねばなりません」ヘブライ4章13節。「私たちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」2コリント5章10節。

これは「私的審判」と呼ばれています。

 

もしかしたらこれを読んだ人の中で怖い思いをした人もいるかも知れません。でも恐れるべきことは、主の裁きよりむしろ、自分が昔のイスラエル人のように主の前で心を頑なにしたり心を閉じたりすることです。

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」1テモテ2章4節。

「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方の為に忍耐しておられるのです」2ペトロ3章9節。

「生涯の終わりまで信じることも回心することも拒み続ける人々」だけが地獄に落ちるのです。(カテキズム1034番を参照)

 

私たちが主イエズスのご受難とご復活を荘厳に祝う日が間近になりました。私は四旬節の後半を通して十字架にかけられているキリストの前に祈ることをお勧めします。そこで私たち人間は、どれほどキリストが私たちを愛して下さったか、どれほど心を頑なにすることを恐れるべきかを学びます。もし主が私たちの心を照らして自分の罪をもっと深くわからせて下さるなら、それは自分が主に近づく機会を頂いた恵みとして受け入れて、心からの回心によって応えることにしましょう。そうしたらもっと大きな喜びを持ってご復活祭を祝うことができます。