四旬節第4主日 2023年3月19日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 サムエル記上 16章1b、6~7、10~13a節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章8~14節

福音朗読 ヨハネによる福音書 9章1~41節

 

 

<お説教要約>

 四旬節の歩みには、特に二つの側面があります。一つは、古代教会の時からご復活祭で洗礼を受ける人の最終的な準備の期間として設けられました。それに合わせて、すでに洗礼を受けている人が、洗礼の恵みを新たにするために、もっとふさわしい心で復活祭を祝うことができるように、回心の期間として設けられたのです。典礼はそれを反映しています。例えば、先週のサマリア人との対話の中のキリストの言葉は、特に水について触れました。洗礼の時は、水によって、注ぎながら授けます。キリストは、心の渇きを癒す水、信じる人の心の中から湧き出る水、水というもののもっと深い意味を、別のところで、それが聖霊のことを指していると教えています。

 

洗礼の時にもう一つ、洗礼を受けた人に、光を灯したろうそくを渡します。今週の朗読は、特に光の意味を深めます。ろうそくを渡すとき、言葉で表されます。

「あなたはキリストの光をもたらすものとなります。主イエズスキリストが来られる時、全ての聖人と共に喜んで主を迎えることができるよう、いつも光の子として歩みなさい。」

光の子として歩みなさいとう表現は、今日の第2朗読から取られています。福音書では、キリストは世の光ということを表すために、生まれつき目の見えない人を癒してくださる奇跡を起こしています。それは癒しの奇跡でもありますが、人を照らす主の光のことを表しています。サマリアの女と同じように、それによってこの人も信仰を歩みます。最初に主に照らされて、預言者だと気づきます。体の目だけ開かれたのではなく、心の目も開き始めます。さらに進んで、その人は、人の子を信じるとひざまずきます。そこに信仰の歩みがあります。

 

この光というテーマは大切なところです。聖パウロが言っているように、

「あなた方は以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」

闇でしたが、と言うと、キリストの光を受ける前に、人は暗闇の中をさまよっているところが多いです。自分がいろいろ選択しながら、十分自分のやっていることを意識していないことが多いです。傾向として、人は目先のことに目を注いで、目に映る良し悪しの基準で選んでいます。利益になるか、損失になるか、都合がいいか、悪いか、周りの人の反応などを基準に選ぶことが多いです。大概はそのような選択によって、どのような人間になっていくか、行き着くとことはどこであるか、普通の人はそこまで考えていないのです。そのような意味では、暗闇の中にさまよっているような感じです。この時はこうして、あの時はああして、と一貫した生き方はしないで、ある意味でいい加減なところがあると言いましょうか、遠いところまで考え、見ようとしないのです。行き先がわからない人は迷います。その意味では、洗礼の恵みは、古代教会の時から照らしと言う呼び方もありました。洗礼で主の恵みによって心が照らされて、遠いところまで、人間の生き方について見えるようになるのです。同時にキリストに照らされた人は、分かれることがあります。キリストが説明されました。光が世に来た時、人は、自分の行いが明るみに出ないように、光の方に近づかない人もいます。でも、良いことをしている人は、光に近づきます。その意味ではもっと責任が重くなるのです。意識しないで、さまよっている時は、それほど自分が見えないから、責任はあるでしょうが、もっと軽いです。照らされて行くべき道がはっきりわかった時点では、それを無視して、拒んでいると責任が大きくなるのです。

 

今日の福音書にも見られます。癒された人の信仰の歩みに対して、ファリサイ派の人がますますキリストを拒み、頑なになるのが見られます。実際の奇跡の前で、それはキリストのみわざを証しています。でも自分にとっては都合が悪いのです。キリストを信じるなら、生き方を変えることになるし、自分の立場も脅かされます。だから拒みます。それは人間にとってとても危ないところです。責任が重くなります。

 

私たちも心が照らされるように求めるべきです。暗闇に残らないように、聖パウロが言うように光の子として歩めるように大いに祈るべきです。主が自分の罪を示される時は、それをもっと受け入れるように、その素直さもすごく大切です。想像して見てください。もし、主なる神が全人類の心を照らして、みんな一人一人に、主ご自身がその人を見ているように、その人に示してくださるなら、自分のあらゆる良い行いも悪い行いも、あらゆる特や、罪も、主の前で自分の裸で明らかな姿を、自分自身がはっきり意識するように、主が心を照らしてくださるなら、その人の反応はどうでしょうか?主に対する態度、どのくらいの素直さがあるかによります。素直な人なら、恵みとして受け止めると思います。自分の悪いところを示されたら、辛いし、楽しくありません。でもそれは、回心する機会です。主に近づき、主の愛に心から応える機会だから、むしろ悲しみながら、喜んでそれを受け入れると思います。素直な人は、心から回心して新たな一段と深い信仰の歩みを始めるでしょう。でもそこまでの不思議な出来事、偉大な恵みがあっても、頑なになっている人は、私の気のせい、妄想、想像したことに過ぎないと、恵みを拒んで、自分が変わらないように、不都合なことにならないように、自分の生き方を見つめないで、心を閉じる人も出るでしょう。そこではっきり分かれることになります。

 

私たちは四旬節の間に、主に心を照らしてくださるように、私たちに開かれた素直な心を与えてくださるように、素直に悪いことを認めて、主の前でへりくだって、これを機械として、恵みとして喜んで受け入れ、悲しみながら、心から聞き従う恵みを願っていると、今年の復活祭を大きな喜びで迎えることになります。