拝領前の信仰告白について

新しいミサの式次第を導入する時、小教区レベルで選択するところがありました。一つは「拝領前の信仰告白」です。大船教会では以前から唱えている言葉を選びました。「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」ところでもう一つの言葉、すなわち「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます。」がいいと言って再検討して欲しいという声がありました。

  

その方は二つの理由を挙げました。1)大船教会で選ばれた言葉は日本だけで使われている言葉ですが、もう一つの言葉は世界中のカトリック教会で使われているし、新しい式次第が導入されたら多くの日本の小教区もその言葉を選びました。2)もう一つの言葉はご聖体を頂く時の態度をもっと良く表しています。二つ目の裏付けとしてカトリック教会のカテキズムの1385と1386を引用しました。カテキズムの説明では、ご聖体のうちにキリストご自身を頂くので、聖パウロが勧めているように良心を究明すべきです。「従って、ふさわしくないままで主のパンと食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。誰でも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」1コロント11章27~28節。教会はその究明を促すためにもう一つの言葉を古代教会の時から唱えてきました。

 

典礼部会でこの提案について話し合ったら、どちらの言葉がいいかに関して意見が分かれました。私は今の言葉がいいという方の意見も理解できると思います。キリストを求める心、キリストに全ての望みかけている心、自分がわからなくてもとにかくキリストを信じる心はこの言葉が表しています。その反面、自分がふさわしくないと告白するのは、あまりいい気持ちにならないでしょうが、必要ではないかと思います。

 

いずれにしても、典礼部会ではこの言葉の意味をもっと深く考える機会だから、このことについてもっと多くの方と話し合うことにしようという結論でした。皆さんの意見を聞きたいです。やはり、言葉を唱えるだけなら、どんな言葉でも無駄です。言葉が心を表すことが重要ですので、これを機会に一人一人が自分のご聖体に対する態度についてもっと深く考えることになったら幸いだと思います。