年間第2主日 2023年1月15日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 49章3、5~6節

第2朗読 コリントの信徒への手紙 1 1章1~3節

福音朗読 ヨハネによる福音書 1章29~34節

 

<お説教要約>

今年はA年、マタイによる福音を読んでいきます。今日は年間のはじめにヨハネによる福音を読みます。イエスの宣教活動のはじめのところです。ここでヨハネはキリストについてあかししています。ヨハネはイエスが自分のほうに来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」この表現は聖書に親しんでいる人には深い意味があるのです。旧約の時代、出エジプトでの過越の小羊。「その時、主は命じられてその小羊を屠ってその血をとって小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。」主はあとでエジプト人をうつときに、その血のあるところは過ぎ越します。主がエジプトをうつとき、滅ぼすものの災いがあなたたちに及ばない。血によってイスラエル人は災いから守られ、そのうえエジプト人は打ち破れて、イスラエル人は奴隷の状態から自由になった。教会の深い理解ではこれは私たちの救いの前のかたち、前表。昔のイスラエル人は人間の苦しみから解放されたことに対して、私達は人間ではなく罪、罪を通して支配する悪魔から解放されます。だからこの小羊は滅ぼすものから守るものではなくて、「世の罪を取り除く」神の小羊なのです。

 

このもっと深い意味は旧約時代にも見られるのです。主の僕という姿、キリストにおいてははっきりしています。「その人は屠り場に引かれる小羊のように、毛を切られる物言わない小羊のように、彼は口を開かなかった。」でも主は言うのです。「主の僕は多くの人が正しいものとされるために彼の罪を自ら負った。」すでに預言者を通してキリストはこの働きをしめされていたのです。聖書に親しむ人は、その響きをヨハネの言葉に感じます。

 

教会もその箇所を引き継いで宣言しています。それはミサの中で平和の賛歌、

「世の罪を取り除く神の小羊 いつくしみをわたしたちに。」

もっと意味をおさえたところは、聖体拝領の信仰告白の司祭の言葉

「世の罪を取り除く神の小羊」これは日本語訳です。でも規範版では「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」そこで司祭はヨハネの言葉を宣言しながら、皆にホスチアをしめします。

 

「これだ!これが神の小羊だ!」その意味は私達は実際にイエスの時代に生きていないから目に見えるイエスに会えない。でも私たちは会います。別の神秘のうちに。秘跡のうちに。ご聖体のうちに私達は実際に会います。会えるだけでなくキリストと一致することになるのです。キリストをいただきます。キリストが私達の中に入ります。手に乗って口を通して中に入ります。その意味では昔の人より私達は恵まれています。司祭の言葉には続きもあります。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い。それも聖書の言葉です。それはヨハネの黙示録。ヨハネは世の終わりの有様を幻で見たとき、屠られた小羊が見えたのです。キリストのことです。最後のヨハネが見たのは「小羊の婚礼の日がきて、花嫁は用意を調えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」小羊とはキリストのことです。キリストと教会の婚礼。聖パウロが説明しているようにキリストは花婿。教会は花嫁。そこでキリストと教会が全くの一致することが話されています。それは天国のことです。

 

この世においては私達は一致してはいます。ただ完全にはなっていません。でも「その時」は全く正しいものとされ全くキリストと一致するようになるのです。天使はヨハネに言います。「小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」「神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」はここから取っています。このように簡単な言葉のうちに深い意味があります。司祭はホスチア・キリストの御からだをしめす時は、キリストの十字架で救いの技、それに世の終わりの完成・完全な救い、両方私達に宣言しています。それも今現在のことです。私達の今のキリストの一致、将来希望として与えられてキリストとの完全な一致・完全な救い、それを宣言しています。私達はそれを受け入れて聖体拝領の前に信仰告白をします。

 

ミサで唱える言葉をもっと意味深いところを意識して心をこめて信仰告白をして、心をこめて愛と信仰をこめてキリストの御からだをいただきたいと思います。