復活節第4主日 2022年5月8日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 13章14、43~52節

第2朗読 ヨハネの黙示録 7章9、14b~17節

福音朗読 ヨハネによる福音書 10章27~30節

 

<お話の要約>

復活節第四主日には毎年ヨハネ福音書が読まれます。キリストは良い牧者であると。これは毎年のテーマになっています。それに関してよくこの日に司祭の召命のために祈りますが、重要なことは、司教も司祭も牧者ですが、だれよりもキリストご自身が私たちの牧者です。特に司教はその代理者でもあります。司祭は司教の協力者として司牧に当たっています。

 

良い牧者はまずキリストに聴く必要があります。司教自身も私たちがキリスの声を聞き分けてキリストに従うように奉仕する立場の人です。奉仕の役割は代わってあげることができないものです。たとえば、私がおなかがすいていても司教がいくらいっぱい食べても私のおなかはいっぱいになりません。司教がいくらキリストの声に聞き従っても私自身がキリストの声を聞きわけて従う必要があります。さもないとキリストが私たちを永遠のいのちに導くことはない、これが大事なことです。ほかの人は信仰の成長に奉仕はできても私に代わって成長することはできません。私自身が聞き分けて従う必要があります。

 

キリストは今日の福音ですごいことを約束してくださいました。キリストに従うなら私は決して滅びない、私に永遠の命を与える、と。キリストは私たちの人生を通じて牧者になってくださいます。死を迎えるとき永遠のいのちに導いてくださいます。永遠のいのちとは地獄に落ちないで天国に行くことと言えます。

 

それは第二朗読にもみられます。ここには天国の場面が描かれています。聖人たちは多くの苦難を通ってきました。人生の多くの苦しみを耐え忍びました。殉教者は迫害に耐えた人たちです。子羊キリストは彼らの牧者となり、彼らをいのちの泉に導きます。私たちも最終的にそれを目指しています。

 

そこに行くにはキリストの声を聞き分けて従う必要があります。それを続ける必要があります。第一朗読ではキリストを信じるようになった人たちに対して、パウロとバルナバは神の恵みのもとに生き続けるように勧めました。ずっと生き続ける必要があります。拒むこともあるからです。信じないユダヤ人を前にして、神の言葉を拒んで自分自身が永遠のいのちを得るにあたいしない者にしてしまった、と言っています。彼らは今そうしていると警告しています。その人たちがそれを聞いて回心すれば幸いだと思ったことでしょう。その可能性もあります。

 

福音書に読まれるキリストの声を聞き分けるということはほかの声もあるということです。キリストに従っていくところから私たちを誘惑してキリストに従うのをやめて、道からそれるようにそそのかす声もあるということです。教会の伝統によれば、特に誘惑の声は三つのところからくると言います。一番肝心なもの、もとは心の中の欲望で、それを利用して煽っている世間と悪魔。例えば世間は消費主義の世界であって宣伝をします。売るために欲望を煽って興味を持つように、買うように働きかけます。私たちはその影響を受けます。周りの人の意見など、世間的な価値観は福音に合うものと合わないものがあります。周りの人との関係で困らないようにするのか、キリストの声でなく世間の声か、などの誘惑があります。それを聞き分ける必要があります。

 

悪魔は私たちの欲望をそそのかしています。大もとは心から出る欲望です。それがなければ私たちは誘惑されません。例えば詐欺師は信頼されるように人に話しかけ、金銭欲について、こうしたら早く金持ちになる、と騙したりします。しかし相手に金銭欲がなければいくら話しても何のこともありません。そこには危険がありますから気を付けることです。

キリストに従うには自分のしたいことは何もだめなのでしょうか...。そこで人は信仰の歩みに惹かれることがあります。キリストも私たちの心に訴えますが、心の一番深いところの願望に訴えます。それは神に対する願望です。人の心は神によって神に向けてつくられているので、神への憧れが心に刻まれています。神のうちにのみ私たちは真理と幸せを見出すのです。心の奥底で私たちは神を求めています。それほどこれを意識していないことも多いけれど。その願望にキリストは訴えるのです。それに気づいて従うと返って楽になります。

 

問題は、最初はその願望があることに気づかないこともあるということです。経験がないならまず自分の心にそれがあると信じることです。それは信仰に基づいて確かなものです。神は確かに愛をもって人間をご自分に向けてつくられました。人間を完全に幸せにしたいと、それこそ神の愛の表れです。最初はそれを信じるしかありません。しかし本気になって心から神を求めるなら、自分の経験を通して確認できます。本気になってキリストに従おうとするならこの世が与えられない特別な喜びが心に涌いてきます。それは神からのもので、心の奥底にある願望がいくらか充たされたことからくる喜びです。これは信仰の喜びで、永遠のいのちの喜びの前味というものです。それを経験したら人はもっと意欲的にキリストを求め、その声を聞き分けてキリストに従おうとするでしょう。