復活の主日 2022年4月17日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節

第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節

福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節

 

<お話の要約>

復活おめでとうございます。この復活の神秘は教会のなかで一番偉大な神秘です。私たちはその神秘に入るために不思議さ感じることも役立ちます。私達は教会で復活というと信仰宣言の中で繰り返し唱えているので慣れてしまい不思議さを感じなくなっているかもしれません。でも聖書の箇所を読んだら当時の人はみな非常に驚いたのです。墓が空になって遺体はどこにいったかもわからない。マリアは復活のことなど考えないで、誰か遺体をもっていったかと思っていました。聖ヨハネが伝えているように、二人の弟子もきたけど聖書の言葉をまだ理解できていなかったのです。復活は本当に驚きでした。復活という言葉自体はすでにありました。一般のユダヤ人は復活を信じていました。ですがユダヤ人が信じていた復活は世の終わりに人類全員が復活することでした。誰かが先立って復活することは思いもよらなかったのです。驚きでした。十分理解できなかったのです。今でも不思議だと思います。復活はたわごと・おとぎ話と言う人も少なくないと思います。私たちの経験でも誰も復活した話など聞かないでしょう。死語の世界は誰がわかりますか?あの世から戻ってきた人はいないと言う人もいます。でも教会は「いや違います。戻ってきた人はいます。イエス・キリストといいます。」

 

キリストが復活されなかったら教会は今、存在しているはずはないのです。教会があること自体、ご復活の証拠です。弟子達は復活がなければ宣教に出かけるはずがありません。宣教に出かけなかったら他の信者はうまれなかったのです。教会はなく、途絶えてしまったはずなのです。でも実際は第一朗読にあるように聖ペトロはキリストの受難のときは「知らない」と3回言って逃げたのに、大胆にみんなの前でキリストの受難と復活を宣言しています。力強く伝えています。そして証言します。キリストが復活してから一緒に食べたり飲んだりしましたと。それは弟子達が経験したことです。幽霊は食べたり飲んだりはしないですね。体をもって復活されたキリストと一緒に食べたり飲んだりしました。

 

本当にキリストが死者から復活したことは、この弟子達が身をもって知り確認し確信するようになり疑う余地もなくなって、そこでキリストのことを伝えたのです。それは驚きのメッセージです。たとえば宇宙人が地球を訪れたら人類全体は大きな衝撃をうけて物事を見る目がすっかり変わるでしょう。でも教会にはそれ以上のものがすでにあるのです。

 

天地の創造主キリスト神の子がこの世に生まれて、神の子が復活してこの死を超える命の道を開いてくださったのです。宇宙人どころか、神ご自身が救いをもたらすために私たちにあらわれたのです。そこで新しい世界・新しい道が始まるのです。キリストが神の子として奇跡をおこし、人を癒やしたり、人の罪を赦し、悪霊をおいだしました。それを人は受け入れようとしませんでした。キリストを殺して墓にいれて、閉じてしまってそれでおしまいのはずでした。でもそれは神の計画ではなかったのです。

 

神さまは人間が塞ごうとするところに道を開いてくださったのです。新しい道。まだ探検していない新しい道よりもっと優れたもの。この世を超えるもの。あの世に通じる道。その道は私たちに与えられています。信仰の歩みはキリストが開かれた道を歩むことです。それは信仰によるのです。聖ペトロも証言しています。「信じるものはだれでもその名によって罪の赦しを受けられる」

 

人間は死はとくに怖いと思っているのが一般的です。でもそれよりもっと怖いことがあるのです。人間が自分の自我に取り込まれて、そこに塞がれて墓にいるように自分自身に閉じ込められて出られないような状態。それは結局、罪の結果です。自己中心的、傲慢なところ。でもキリストはそこから出る道を開いてくださったのです。この世からだけではなく人間自身からの道をひらいてくださったのです。聖パウロが言うように新しい歩みが始まるのです。新しい歩みは一般の社会でのやり方と少し違います。人は何かをめざすときは頑張って努力してそれを成し遂げようとします。社会的にも頑張ることを励ますんですね。でも人はどうしてもどうしてもいくら頑張ってもできない時、とうとう諦めてしまうのです。それは社会的な頑張りかた。でも信仰は違うのです。信仰の歩み・努力は諦めから始まります。自分を救おうとすることを諦めてキリストを信じてキリストに救いを求めてキリストから恵みをいただいて恵みによって頑張ります。逆です。それはもっと確かな道でもあります。どんな人でも人間の力と思いには限界があります。でもキリストは神の子として限界はないのです。キリストの恵みの力によってキリストの教えに従う人はもっと力強く歩めるようになり、その人自身にも新しい道が開かれて新しい人になります。

 

人がキリストの愛のうちに歩むときは一番自分らしくなります。それこそ幸せの秘訣です。キリストはこうして罪の赦し、新しい命の道を開いて完全の終わりのない幸せにいたる道を私たち一人ひとりに開いてくださいました。