復活徹夜祭 2022年4月16日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 出エジプト記 14章15節~15章1a節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 6章3~11節

福音朗読 ルカによる福音書 24章1~12節

 

<お話の要約>

みなさんご復活おめでとうございます。

この復活の神秘は本当に偉大な神秘だから、簡単に話すものではないんです。でも、まずひとつ思うには本当に復活のことを理解するために、その不思議さ、本当に不思議なこと、神秘的、不思議なことです。それは特にたとえばきょうの福音書によく見られるんですね。みんな驚いたんです。びっくりしたんです。キリストはなんとガリラヤに行ったとき、もうすでに話しておいたのに、それでも驚いたんです。わからなかったんです。それもひとつ、どうしてでしょうか。

 

そんなに説明されていないけれど、わたしが思うには、ひとつは人の心の動きとして、キリストはここで「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と。わたしたちは、何か衝撃的なことばを言われたときは、頭の中が真っ白になって後は何もわからなくなるような現象もあるんです。それもあったんじゃないかと思うんですね。キリストが、自分が罪人の手に渡され、十字架につけられ・・・そこまで言ってもう、その言葉だけで衝撃を受けて頭の中が真っ白になって、後のことがまったく頭に入らなかったんじゃないかと思うんですけれど。

 

と言うのは、復活ということばは知られていました。多くのユダヤ人は復活を信じていました。ただ、世の終わりのときの現象として信じたんです。だから、誰かが先だって復活するというのは、それこそ思いのほかでした。驚きのことでした。だから、そういうふうに言われたら、婦人たちは天使たちも見えて、それも誰でも驚きのことになるんです。そのことばを思い出しても、もしかしてと婦人たちはわかったんですが、弟子たちはそれを見ていなかったから、戯言のように思ったんです。聖ペトロも走っていって調べたんです。でも驚きながら帰ったと。

 

本当に不思議です。誰がその話を、まあ、キリスト以外はそういう話さえもないんですね。人が実際に復活して、人に現れたという。幽霊の話はあるとしても、復活の話はほかに無いです。多くの人々は、いまでもそれを戯言のように、福音書をお伽話のようにとらえる人も多くいると思います。でも、それこそわたしたちの与えられた希望です。この復活の神秘にもっと入るために、わたしたちはできることがあると思うんですね。ひとつは、これは真実、本当に起こったことだともっとわかるようになったら、その不思議さとわたしたちに与えられたメッセージももっとはっきりわかると思います。

 

何よりも、ひとつは、この復活が無ければ、いま教会は無いはずです。だからその意味では、教会の存在そのものは、復活の証拠になると思うんです。と言うのは、このように戯言だと思っている弟子たちは、もし何も復活が無かったら、十字架で終わってしまったら、もうその弟子たちはキリストが大きな失敗をしただけで終わってしまったと、お終いで何も無いと、それしか考えなかったんです。ほかのことはもう考えるのはあり得なかったんです。それだったら、宣教もしていなかったし、ほかの人々が信じるようにならなかったし、教会も無かったんです。

 

でも、実際に教会があるのは、やはりキリストが弟子たちに現れて、実際に復活して、しかもそれを証明してくださったんです。その疑っていた弟子たちは、本当だと、そこで自分の世界がいっぺんで変わるんです。たとえば、宇宙人が地球を訪れたら、人間にとっては人類全体の大きな打撃で、わたしたちの考え方がそこですっかり変わるだろうと言われます。でも、教会が言うには、それ以上のことがすでに起きたんです。キリストが復活したんです。死の世界から来られたんです。戻ったんです。「死後の世界はどうせわからない。なぜなら誰もそこから戻った人はいないでしょう」と言う人々もいますが、教会は、「いや違います。戻った人がいます。イエス・キリストです」と言います。だから、死はそこで終わりではないです。新しい命の始まりです。

 

それは、ほかの朗読も示しているところで、主なる神は、道の無いところに道を開くことができます。出エジプトのように。イスラエル人は、海と敵軍の間に挟まれて、逃げ道の無いところで、主なる神は海の中の道を開いてくださった。そこで不思議にも、主の力によってイスラエル人が解放されて、逃げること出ることができたんです。でも、キリストがなさったことはそれより偉大なものです。人間誰ひとりでも一番怖がっているそのものに道を開いたんです。キリストも墓におさめられて、石がその前に転がされて、それでお終いのはずが、道の無いところに主が道を開いてくださったんです。新しい道。この死を超える道。あの世に通じる道。この世を超える道。しかも、人間の罪からの解放でもあるんです。

 

と言うのは、死と同時に私たちを一番圧迫しているところは、実際自分自身がわかれば、自分の心の状態です。人間は何となく墓に閉じ込められたように、自我に閉じ込められて、自分から出ていくことがなんと難しいことか。でも、そういうような人間でも、どうしようもない状態でも、キリストが道を開いてくださいました。そこで、聖パウロが言っているように、新しい道がわたしたちのために開かれたんです。それは、特にこの洗礼の秘跡をとおして、今晩、洗礼を受けるここにいる山田さんにその道が開かれます。それはこれから歩む道です。

 

でも、その歩み方は、信仰によって歩むんです。信仰による歩み方と、信仰によらない歩み方は違います。聞いた話ですけれど、ある人は自分には信仰が必要ないということで説明したんですが、自分はいままで努力して人生の道を切り開いたから、今後もそうするつもりですと。それは、信仰によらない歩み方です。信仰による歩み方は、主がわたしのために道を開きました。主の恵みによって、わたしは主が開かれた道を歩みます。それは信仰による歩み方です。人間の思いと力を超える道。人間のあらゆる望みを十二分に叶えてくださるそういう幸せにあたる道。永遠の命と、聖書が言っているところはそこです。永遠の命と言っても、それは不思議なもの、わたしたちの理解を超えているものです。それはすべてこの復活によって開かれた道です。だから、教会は盛大に主の受難と復活を毎年祝っています。 その毎年祝っていることも、そこに大切な意味があります。

 

と言うのは、信仰の歩みの中で、毎年同じ受難と復活を祝っても、今年はわたしにとっては去年と違うはずです。信仰の道を歩んでいるのなら、去年から成長して、主に導かれて今年はまた新しい道が開かれます。来年も同じです。そういうふうに、わたしたちは徐々に主に近づいて、主に導かれて、主の道を歩んで、ますますこの自分自身、新しい自分になります。

 

新しい自分は、一番自分らしい自分。キリストの愛に生きている人こそ、誰よりも自分らしく生きています。誰よりも自由になっています。それは愛による自由。キリストが与えた、死を超える罪を超える自由。イスラエル人はエジプト人の手から救われて自由になりました。わたしは悪魔の手から逃れて自由を得ました。主の愛のうちに永遠に生きるために、わたしたちはこの恵みをいただいたんです。だから教会は、特に主を賛美して感謝して、その感謝しきれない恵みを繰り返して感謝して賛美します。そのためにも、教会が絶えずミサ、すなわち感謝の祭儀を繰り返して捧げています。この感謝しきれない恵みをまた感謝して主を賛美して、祝って、そして新たに力を受けて歩み続けます。