聖金曜日 2022年4月15日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節

福音朗読 ヨハネによる福音書 18章1節~19章42節

 

<お話の要約>

教会が特に盛大に主の受難を記念して祝う時、特にヨハネによる福音からその箇所を読んでいでます。おおよそどの福音書も大体同じことを伝えています。それぞれ書の特徴というか、強調するところはあるのです。

 

ヨハネの場合は、イエスが王である所を強調しているのです。でも特別な感じの王です。

たとえばここに見られるところでは「イエスは私である」と言われた時、逮捕に来た人は後ずさりして地に倒れて、それで主の威厳も示されています。

 

全ての福音書はイエスをユダヤ人の王と言われるところはあるのですが、でもヨハネは、特にピラトとイエスとのやり取りをもっと伝えているし、その罪状書きについてのやり取りも書いているのです。そして大祭司は「皇帝の他に私たちに王はない」と言っていますが、そのところはすごく背信の言葉です。

 

というのはユダヤ人の元々の信仰は、「主なる神ご自身はイスラエルの王である」というもの。だから自分たちには皇帝、異邦人、ユダヤ人以外に他に王と呼べる者はいない、という考え方はやはり主なる神を退けている感じです。でもご自分を信じる人には主は王となられます。ただ、ご自分の王としての身分というか、ご自分の国はこの世に属していないから違う王なのです。

 

ここで見られるキリストは王として、賞賛の代わりに侮辱を、黄金の冠の代わりに茨の冠を、王座の代わりに十字架を・…。そのような王です。苦しんでいる、命を捧げている王です。でもなぜかと言うと、それは主の望んでいるところだからです。人間を力ずくで従わせようとなされないで、キリストは自ら言われて上にあげられた全ての人をご自分の元に引き寄せようとされますが、それは愛によって引き寄せるということです。この世の王みたいに権力を振るって人に命令を出すより、キリストはご自分の愛を示して、命を捧げるまでの完全な愛を示して侮辱、苦しみを耐えて、愛を示しています。その愛を持って人間の心に訴えています。人間の自由に訴えています。というのは主はご自分に従う人を求めていますが、奴隷は求めてないのです。ご自分の愛に応えて自由に従う人を求めています。だからキリストは愛の王、憐みの王になられたのです。

 

そこはこの偉大な神秘の一つの側面です。そこからすべての恵みが流れ出ます。それもヨハネだけに伝えている場所ですが、死んでから脇腹が刺しつらぬかれて水と血とが流れてきました。命の泉、恵みの源、溢れる愛と恵みと赦しと平和・・・・。キリストの御心が、十字架にかけられたキリストから、御心が豊かに流れ出ます。だから教会は聖パウロが言っているように誇りとします。キリストご自身は十字架で殺されることを恥としないのだから私たちも恥としません。私たちの救い主キリストは私たちのために全てを与えてくださったのです。私たちはそれに感謝して主の愛を賛美して、そして私たちもそれに答えようとします。