受難の主日 2022年4月10日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 50章4~7節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節

福音朗読 ルカによる福音書 22章14~23章56節

 

<お話の要約>

主の受難の朗読するとき、わたしたちにはいろいろな感想があります。その一つとして。イエスがエルサレムの婦人たちに対して言われたお言葉に対する感想を取り上げてみましょう。泣き悲しむ婦人たちに向って主は、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣きなさい」と言われました。当時のことを考えてみてわかるのは、婦人たちに対すると同時にこれは、特にエルサレムの破壊のことに言及しておられるのです。しかし、もっと深いことも言っておられるのです。イエスがやがて復活の証人になること。イエスのこと、ご自分自身のことなのです。

 

聖書全体を読むと測りがたい主なる神の愛が語られていますが、神の人間に対するこの愛は片思いです。人間はそれほど愛されていながら、それに応えていません。それもわたしたちが主の受難を前にして言えることではないでしょうか。何度聖書を読んで受難の個所を前にしても心から応えようとしないことがあります。なぜでしょうか。不思議なことです。

 

主なる神の愛は人間にとって何よりの魅力であり、幸せであるはずです。人はそのために造られているのですから。神に愛されているのです。神への憧れも与えられています。私たちのために存在する神です。それなのに人間はそういう神を心から求めることが難しいのです。頭でそれを考えて心で認めることができても、結局、神の愛よりも、自分の本当の幸せよりも、もっと大事なものがあると思っています。それは仕事の成功、生活、家族の安定、その他の心配事などいろいろです。

 

これらはキリストの愛と比べるとすべてこの世のものです。わたしたちのためにキリストは十字架上で、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分が何をしているか知らないからです」と祈りました。わたしたちにもわからないことがあります。自分の心がすべてに越えて素晴らしい神から造られたことを理解できないでいます。

 

福音書に出ている、十字架上の天国泥棒のこと。彼は「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と願いました。それに対してキリストは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束して下さいました。最後に、死の間際に回心した泥棒に対するお言葉です。

 

神はわたしたちを待っておられます。わたしたちがいつか心の扉を開いて、心を神に向けるように待っておられます。その声を聞いて主に向かうように。イエスは待っておられます。わたしたちを、いつまでも。