四旬節第3主日 2022年3月20日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 出エジプト記 3章1~8a、13~15節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章1~6、10~12節

福音朗読 ルカによる福音書 13章1~9節

 

<お話の要約>

きょうは、キリストは私たちに力づよく回心を呼びかけています。だから、かなりここも厳しいところです。でも、いわゆる愛の鞭です。キリストは私たちのことを思って警告しています。注意しています。それも、まるで親がするように、子どもが何か危ないところへ行こうとしているときには、やはり強く引き止めて叱ったりするんです。それは、親が厳しいからではなくて、子どもに対する想い。子どもの身に何か起こったら親の心は苦しいです。大切な子どもにそういう目に遭って欲しくないんです。キリストもこの点では同じです。私たちに滅びの目に遭って欲しくないからこそ、警告し注意しています。

 

そのことを考えたら、まず私たちはこの主のことばを他人事と考えてはいけないんです。それこそ、特にきょうの朗読の大きなメッセージです。回心の呼びかけを他人事と考えて、自分とは関係ないからと受けとめない。それこそ危ないです。たとえば、聖パウロだったら、昔のイスラエル人が砂漠の中で、主なる神に逆らって懲らしめられたことに触れて、当時の信徒といまの私たちにも聖パウロは言っています。それは、私たちを戒める前例として、または私たちに警告するために起こった前例です。だから、聖パウロの結論は「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」。それを他人事と考えたら危ないです。自分は立っていると思って、ほかの人が危ないと思って、自分にはそういうところが無いと思ってしまったら危ないです。立っていると思っている人こそ倒れやすいです。それは、言い換えれば、一種の自信過剰です。そこでは、キリストも自信過剰を警告しています。

 

キリストは、悪いことから罰を受けたことより、普通に起こる不幸な災害について触れています。抹殺されたガリラヤ人と、倒れた塔の下敷きになった人たちの不幸な事故に触れて、同じように警告しています。それを他人事と思ってはならない。本気で受けとめて、回心の呼びかけとして受けとめなさいと。自信過剰にならないように。考えてみれば、私たちにもそういうところがあるのではないかと思います。隣に不幸になった人がいるなら、何か末期癌を宣告された人や、事故に遭って大怪我をして入院している人を可哀そうにと同情するところもあれば、心のどこかで、自分にそれが起こったら怖いとか自分でなくてよかったとほっとしたりするのではないかと思います。でも、キリストがそこで言うのは、今回はあなたのことではないでしょうけれど、だからと言って、あなたに起こらないとは限らないと。自信過剰にならないで。それは危ないですとキリストが警告しています。

 

病気を宣告されても事故に遭っても、そういういろいろな事が無くても、とにかく私たちは必ず死にます。いつか死を迎える日から逃れることも免れることもない。それは事実です。私たちは死んだらキリストの前に立って、キリストの裁きを受けます。それも事実です。この人生をどう過ごしたか、そのときキリストに申し述べることになるんです。自分がどういうふうに人生を過ごしたか。それも最後のところの、実を結ばない木のたとえもキリストの警告です。キリストが私たちに求めているのは、悪い事をしないようにするのは勿論ですが、悪い事をしないだけでは足りないんです。実を結んで欲しいんです。考えてみれば、キリストが一番批判したファリサイ派とその律法学者たちは、外からみれば一番正しいきちんとした生活、正しい事ばかりしていたんです。でも、キリストがなぜ批判したかと言うと、心が抜けていました。本当の実を結んでいない。キリストが言う、実を結ぶこととは、愛のわざです。愛の実践。愛の心からくる生き方。私たちは主なる神によって創られたものです。主なる神は愛をもって、愛のために人間を創られた。結局、どんな人間でも、ひとり残らず、一番根本的な使命は、愛するようになるという使命です。愛を学んでいく。愛する人間になる。それは私たち人間の本性、私たち自身の一番根本的な目的です。その意味でも一番大きな喜びでもあるんです。でも、人生を送って愛することを学ばなければ、その人生を無駄遣いにしてしまう。無意味なものにしてしまう。愛することは、それだけ根本的なことです。だから、キリストはそれを求めています。でも、それはご自身のためではないんです。私たちがキリストを愛するかどうかではキリストは変わらないんです。私たちがキリストを愛さないからと言って、キリストが何か損することはないんです。ただ、キリストは私たちを愛しているから、私たちが愛さないならキリストを悲しませることになるんです。

 

だから、キリストは愛の鞭をもって私たちに警告しています。私たちは皆、回心の子と呼ばれているんですけれど、後で後でと、後回しにする傾向があります。それこそが危ないです。私たちの人生はいつまで続くかわからないです。日本の諺にも、来年のことを言うと鬼が笑うという、そういう意識もあるんです。主なる神の慈しみには限界がないです。限りないです。問題は、私たちの人生に限界がある。私たちは生きているあいだに回心しなければ、死んだらもう遅いです。その後は、回心する余地がない。私たちは死ぬ前に回心するか、永遠に滅びるか。どちらかです。自分が立っていると思っている人こそ倒れないように気をつけるよう聖パウロが警告しているし、イエスは、それが他人事と言ったらあなたがたも同じようになると警告しています。聖パウロもイエスも、私たちのことを想って、私たちが主に立ち返って命を得るように、切望して私たちに呼びかけています。それなら、いまいる私たちは、どう答えますか。