年間第4主日 2022年1月30日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミヤ書 1章4~5、17~19節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章31~13章13節

福音朗読 ルカによる福音書 4章21~30節

 

お話の要約

みなさん、こんにちは。今日の福音書は先週の福音の続きです。先週はキリストがナザレに帰って預言者イザヤの巻物を読んで、みなさんが耳にしたとき、実現したと。そしてみんな感心しました。でも、その後はイエスを殺そうとするまで反発、反感がありました。どうしてそのような反応だったのか見極めたほうがよいと思います。

 

一つには、第1朗読の預言者エレミヤの召し出しのところです。主はすでにエレミヤには自分は反対され攻撃されると予告しています。ある意味ではわかりやすい。エレミヤの使命は民の罪を告げて回心をよびかけることでした。人は自分の罪を言われて回心を求められるのは良い気持ちがしません。イエスの場合、イザヤの預言、それは今実現したと告げたその言葉は罪の指摘と回心のよびかけではなく主ご自身の救いのメッセージ。主が救ってくださるというイザヤの預言です。それなのになぜそんなに反発があったのでしょうか。当時の人の心を考えたらわからないわけではありません。あとの言葉によって結局イエスは自分たちの間で生まれ育った者です。ずっと前から知っている者です。なぜ急にすごいことをするようになったのか。奇跡を行うことや、自分たちが聞いた恵み深い言葉、感心させる言葉。どうやってそのような知恵や力を得るようになったのか。疑問点と心の動きとしてはいわゆる「出る杭はうたれる」。それに妬みのようなものもある気がします。もしイエスが自分たちの間で生まれ育ったものなら、自分たちの仲間と権利みたいな気持ちになって、そのような知恵を力をしめすならまず自分が生まれ育ったナザレでしめすべきではなかったかという反発。そこまでの権利があるように感じていました。そのような心からきているように思います。それは恵みのメッセージに対しての反発です。

 

私たちはイエスのふるさとの仲間ではありませんが、恵みに対する反発というか抵抗は私たちにもあるように思います。私たちは原罪、アダムとエバの罪でどうしても自己中心的・傲慢なところがあります。洗礼を受けて聖霊もいただいて、新しい自分がすでに生まれています。ただ完全に自己中心的・傲慢なところはまだ残っているから微妙なところで恵みさえ自己中心的に考えるところがあります。たとえば自分の罪に関して、罪があまりわからないという人もいます。実はわからないという状態は原罪の影響です。自分自身のことがわからない。でも他の人のことははっきりわかります。他の人なら自分を判断できますが、自分のことになったらどうも違います。勝手な見方をすることがあります。でももっと自分の罪を見つめたら落ち込んで暗い気持ちになることがあります。それも自己中心的・傲慢の表れです。自分で自分のことを評価しているような、自分の理想的な姿に比べてこんなはずではなかったとがっかりするような心になることもあります。それは自分の人間的な思いです。

 

それに対して主なる神の愛を強調すること。それはたしかに正しい。特に第2バチカン公会議のあとは、それをもっと強調することになりました。強調することは正しいことです。ただ神の愛も自己中心的にとらえる誘惑のおそれがあります。

「主は私を愛しておられるからこれでいい。成長して歩む必要はない。」と自分を慰める。

神さまの愛を自分の都合のいいようにとらえる恐れ・誘惑があります。

 

神さまの愛は基本的な聖書のメッセージです。聖ヨハネが言う「神は愛です」。それは聖書全体、キリストの神秘、教会の教えを理解するために何よりもの鍵だと確信しています。問題は捉え方です。本気にすることまで。どこかで抵抗することがあるからです。自分が本当に主の愛を深く本気にして真剣に向き合うなら怖い面もあります。自分が愛されすぎるのではないかそういうおそれ。それは結局、人間は、自分のものでありたいというところがあります。でも主の愛はそれよりももっと求めています。主は私たちをご自分のものにしたい。そこは少し怖い、抵抗を感じるところです。でもそれこそ人間のなによりもの喜び幸せ。その意味で今日の福音は私たちに問いかけをする。主の愛の前に罪をどこまで本気にして真剣に受け止めるか。そしてその前で自分がどれほど罪にこたえようとするか。そのような問いかけです。