神の母聖マリア 2022年1月1日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 民数記 6章22~27節

第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 4章4~7節

福音朗読 ルカによる福音書 2章16~21節

 

 

お話の要約

皆さんあけましておめでとうございます。この新しい年を始めるに当たって、聖母マリアと一緒に始めることはとてもふさわしいことだと思います。聖母マリアが産んだ子、私たちの主イエスキリスト、私たちの救いの始まりです。その救いの始まりと同時に、この新しい年を始めるのはふさわしいことです。それで特に今日は、その聖母マリア、神の母聖マリアの名前で教会は祝っています。

 

神の母という表現は、私としては慣れているはずだと思います。なぜならアヴェマリアの祈りを唱えるたびに後半でこの表現で始まります。「神の母聖マリア、私たち罪人のために、今も死を迎える時もお祈りください。」表現としてはずっと古代教会から言われていることです。

 

実はある時期は人が立ち上がってそのことに反論した人もいたと思います。その人が言うには、無限の神は被造物の聖マリアによって生まれるはずはないから、聖母マリアはキリストの母と呼ぶべきです。神の母と呼ばないでキリストの母、区別することです。キリストの人間性だけの母、それを言おうとした。それに対して色々な議論があって5世紀にエフェソ公会議が開かれ、このことを取り上げました。公会議で言われたのは「キリストは分けることはない。」というのはキリストが私たちの人間性を自分のものにしなければ、私たちは人間性や癒されることがない。

 

人間が罪を犯したから人間が罪を償うべきです。ただ人間性そのものには償う力はないから、神の子キリストが人間となられて、人間としてのキリストは人間の罪を償ったのです。でもそれは神の子であるキリストは神の子の力によって、人間として人間の罪を償った。そのことは私たちの救いに、それにかかっています。だから、その意味ではキリストは全くお一人です。その神の子であると同時にマリアの子でもある。でも二人でもなく全く一人です。その人間性をしっかり自分のものにしてくださって分けられない人を産んだ聖母マリアはふさわしくも神の母と呼ぶべきです。

 

でもその神秘は、今日の第二朗読で聖パウロはそのもう一つの側面も説明しているのです。「時が満ちると、神はその御子、女から、聖母マリアから、しかも律法のもとに生まれたものとしてお遣わしになります。それは律法の支配下にあるものを贖い出して私たちを神の子となさるのです。」神の子が人間となられたのは、私たちを神の子とするためです。これは罪を償い、それも含めてますけどそれ以上の恵みを与える。人間はその罪に閉じ込められたんですけどキリストが神の子して、人間を罪の支配から解放してくださって、そして罪を犯す状態以前、それ以上の恵みを与え、その神の子となって、恵み。それは聖パウロが説明しているように、「その私たちに与えられた聖霊、私たちの内で、アバ父、と叫ぶ御子の例がそれを示しています。」

 

その意味でマリア様を通して、こうして私たちの救い、始まっただけじゃなくて、この偉大な恵みもいただいています。聖母マリアは神の母としてその産んだ子をキリストによって、私たちはみんな神の子になる恵みをいただいた。この偉大な神秘を古い私たちは、今日特に教会も思いめぐらして祝っています。そしてその態度も、聖母マリアは模範です。それは特に今日の福音書に見られます。「羊飼いたちは拝み行った時、天使たちから言われたことを伝えたら、マリアはこれらの出来事全て心に収めた。思いめぐらした。それは聖母マリアのその姿が主なる神の審美を思いめぐらして、その意味をもっと理解しようした。」その姿は私たちは、ロザリオを唱えるたびに、それに倣っています。

 

ロザリオの意味は、こうして心に収めて思いめぐらしている聖母マリアと一緒に、キリストに関する神秘を次々と黙想して祈っています。ロザリオの神秘はそれぞれのキリストの神秘を取り上げ、それを私たちも心に収めて思いめぐらせるよう、私たちは導かれています。聖母マリアと一緒に祈って、キリストの子と聖母マリアと一緒にもっと深く知るように近づくように、そういうような祈りです。そしてやはりその聖母マリアが産んだ子は神の子、永遠の君とも呼ばれる。だからその意味でも、教会はいつごろから五十年ぐらいなのかなと思うんですけど、この元旦はその平和を取るためにも教皇様が定めたのです。それもふさわしいです。新しい年が始まった、その新しい年にあらゆる良いことがあるようにそれを願うは、それは当然のことです。その中で特に平和、教会の聖書の言葉ではこの平和はすごく深い意味があります。救いと平和が一緒になる、救われるところに平和がある。そういう意味では、私たちも全世界に平和があるように、全ての人が平和に暮らせるように、何よりも神様から来る平和、その救いに与れる。その願いを込めてこの新しいを始めます。