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主の降誕(日中のミサ) 2021年12月25日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 52章7~10節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 1章1~6節

福音朗読 ヨハネによる福音書 1章1~18節

 

 

お話の要約

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。普通だったらもっと盛大に祝って、もっといっぱい歌えるのですが、残念ながら今は少し簡単な形になっています。でも、教会にとっては偉大な祝い、大きな祝いです。クリスマスの神秘の意味は、今日の朗読が説明しています。「神はかつて預言者たちによって、多くの形でまた多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には御子によって私たちに語られた。」

 

考えてみれば、親しい人たちの間では会話はよく弾みます。色々な経験について話し言葉を交わすことによって、互いの絆を感じながら関係を深め合います。反対に、仲互いする時にはなかなか相手と話そうとしません。主なる神も、親しい関係になるために人間を創られました。元々は神と人間との親しい会話があるはずですが、なかなかそこまでいかないのです。今の人間の姿は、まるで非行少年のように神から離れて不幸な道を歩もうとするところがあるのです。主が呼びかけてご自分に近づけようとしても、なかなか耳を傾けないという傾向があるのです。その有様を見た主なる神は、今日の朗読のように、「かつて預言者によって、多くの形でまた多くの仕方で先祖に語られ」ました。ユダヤ人に対しては預言者を通して。でも、主は全人類すべての人の救いを望んでおられます。主はすべての人に語りかけておられるのです。

 

主の呼びかけの一番古い形は大自然を通してですが、それはあらゆる宗教の大元になるのです。人間はずっと昔から、大自然の美しさと破壊力を通して主なる神への憧れと畏敬の念を覚えたのです。漠然としてはいても、そう感じ取るのが一般的でした。現代ではそこまでいかず、大自然が好きだと言う人でも、その宗教観は堕落してご利益主義のようになってしまっています。主は一人一人の良心、良い心に語りかけます。人類の歴史や経験からも、必ずそう考えられます。主なる神を信じない人でも、存在すること自体を否定する人でも、善悪の感覚はあります。これは悪い、これは良いというのは良心の働きです。人間の心の中の神の声のような存在です。そのようにして主は語りかけておられます。

 

それぞれの文化と民族の中でも語りかけておられます。ユダヤ人は特別に選ばれたので預言者が遣わされたのですが、他の民族にもその伝統の中にあります。日本でも一つ興味深いことがあります。日本の仏教の中にはキリスト教にかなり近いものがあるのですが、それはただの偶然ではなくて、紀元7世紀ごろ既にキリスト教の信仰が中国まで伝わった証拠が判明したのです。同じ頃、日本からお坊さんが修行のために中国に渡って色々学んで帰国したので、中国にいる間にキリスト教的な考えに触れたことは十分考えられます。それを持ち帰って仏教の中に入れたとしたら、それを通しても既に神の言葉はこの地にも伝わったと言えます。そんなにはっきりとではなくても、とにかく伝わったんです。主は「多くの形で多くの仕方で」私たちにも語られたのです。

 

今日祝うクリスマスは、御子によって私たちに語られました。神様を離れ、神様に対して耳が遠くなった状態の人間は、神の声をなかなか聞きとれず、そのような心になったのでますます聞こうとしなくなり、その有様を見た主は、御ひとり子を私たちに遣わされたのです。目に見えない神の存在は分かりにくいので、目に見える形で御子が私たちの所に来られました。目に見える形で、この神の言葉であるキリストは肉となり人間となられたのですが、人間でありながら御子は神の栄光の反映であり、神の本質の完全な表れであって、万物をご自分の力と言葉によって支えておられます。そういう方です。

 

主は私たちを救いたいと望んでおられます。私たちに語りかけて聴いてほしいと望んでおられます。人間関係においても、深く愛しているなら相手に自分の愛を分かってほしい。主なる神も例外ではありません。人間を深く愛しておられる神は、人間に対するご自分の愛をわかってほしい。御子をこの世に遣わして、罪を除いて私たちと全く同じ人間になれるほど、十字架上でわたしたちのために命を捧げるほど、それほど主は私たちに愛を分かってほしいのです。それを教会は今日祝っています。偉大な神様の愛、キリストにおいて表された愛ですが、それは一つの問いかけでもあります。主なる神はそこまでなさる…、あとは人がそれを受け入れるかどうか…。そこが私たちに問われているところです。

 

「ことばは自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。しかし、ことばは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」