主の降誕(夜半のミサ) 2021年12月24日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト

 

第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節

第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節

福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

 

お話の要約

みなさん、クリスマスおめでとうございます。

今日はクリスマスのお祝いで、もちろん、大きな喜びの知らせです。それは、福音書にも見られます。天使たちの知らせは、羊飼いたちに言ったのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」あなたがたのために、それは、第1朗読の預言の実現でもあるのです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために、ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」わたしたちのために生まれたのです。 

 

ここは、普通の人間の愛の場合とちょっと違うところがあると思います。というのは、人間の間では、子供の誕生は必ずしも喜びにならないのです。場合によってはそれを負担に感じる人もいれば、どうしてもできないと思って、前もって子供を堕ろす人もいます。でもその反面、例えば結婚して子供が欲しいと思いながらなかなか子供ができない場合は、もし、思いのほか子供ができたらそれこそ大きな喜びで、その子供を喜んで迎えて、大事に大事に育てるでしょう。結局その子供に対する態度は、その人自身の心次第です。人間の世界でも親子の関係を見れば、その子供が自分のためにあるかのような親もいるのです。その子供に自分の幸せを求めるとか、その子供にすごい期待をかけて、こうなってほしい、ああなってほしいと、そのような親心もあります。でも人間同士の間には、子供は子供自身の人生もあるのです。子供は全く親のためにいる存在ではないのです。

 

ただ、キリストの場合はちょっと違うところがあります。キリストは、まさに私たちのために生まれたのです。私たちのために与えられたのです。キリストご自身は、自分自身のこと、自分自身の人生を別に取ってはいません。どちらかというと、御父のみ旨を行うためにこの世に来られた。私たちのために命を捧げるために来られた。まさに、私たちのためにでなければ生まれなかったのです。そこは普通の人間の子供と一つ、大事な違いです。

 

ただ、問題は主が私たちのために生まれたと言っても、人間の救いのためです。第2朗読にもあります。「全ての人に救いをもたらす神の恵みが現れる」第1朗読にもあります。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」そういう光のイメージは救いのことをさしています。でも、そこは人間の、やはり心次第。というのは、先ほど言ったように、人間が欲しい、求めていることだったら、手に入れたら大きな喜びです。特に求めていれば求めているほど、切望していれば切望するほど、喜びは大きいです。でも人間は果たして、主からの光、救いをどれほど求めているか?それはやはりわたしたちがそれを必要としているかどうかという違いがあります。そこも特に旧約時代の大きな意味があります。というのは、天使が告げたように、この方こそ主メシアであると。主メシアという方は、旧約を通してずっとずっとイスラエルが待ち望んだ救い主です。何世紀にも渡って。なぜ待ち望んでいたか?イスラエルの民、ユダヤ人全体は必要としていました。民として、民族としていろいろ酷い目にあって、自分の力ではどうしても抜け出せないでいた、解決できない、そこで様々の辛い経験を通して、自分たちで自分を救うことできない、主なる神が救ってくださらなければ、救いがない。そこで、主に希望をかけて切望していました。待ち望んでいました。待ち望んでいたからこそ、天使の知らせは大きな喜びの知らせになりました。

 

でも、私たちの場合は、この必要性を感じること、なんとなく感じるところはあると思いますが、たいがいの人は様々な悩みとか、人生の出来事はどうしようもない、どうしたらいいか?自分自身のことで、悩む人も多いです。人の期待に応えられないとか、自分は変わりたいけど、なかなかそうならない。結局人間の限界です。何よりも暗闇。陰を落とす暗闇、それは特に死という大きな現実。「死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」というのは、わたしたちに与えられた、このみどりご、わたしたちのために生まれたこの子供。

 

わたしたちに救いと命を与えるために、罪からの救い、永遠の命を与えるために。この子供こそ、預言書にあったように『その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。』この方は神の子キリストです。永遠の命を持っておられる方、わたしたちの世に来られて、この人間はこの世に生まれてしばらくこの世で暮らしてあの世に去っていく通りすぎる存在として、その人間に対する慈しみをもってこの世に来られ、人間が自我にとらわれないように自由に、本当の自由、一番深い意味の自分らしく生きることできるように、しかもそれが永遠にできるように、罪を越える命を得られるように。そのために、この子供が生まれた、キリストがこの世に来られました。そのために来られたから、教会はこの誕生を祝って、主に感謝して賛美しています。