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待降節第4主日 2021年12月19日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ミカ書 5章1~4a節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章5~10節

福音朗読 ルカによる福音書 1章39~45節

 

 

お話の要約

 みなさんこんにちは。毎年の待降節第4主日は聖母マリアの場面に関する箇所でもあります。今年は聖母訪問、エリザベトの訪問の箇所です。その中でエリザベトの預言もあります。エリザベトの子ども、洗礼者ヨハネは預言者といわれれています。エリザベトは預言者と言われていませんが、少なくとも今回は預言しています。マリアが訪問するとエリザベトは聖霊にみたされて預言します。実際に預言の言葉は今でも教会の中で根付いて繰り返されています。特にエリザベトの最初の言葉は、私達もアヴェマリアを唱えるときに使っています。「あなたは女のなかで祝福されたかたです。胎内のお子さまも祝福されています。」そのあとエリザベトの預言は続きます。特に終わりのころは興味深いところです。エリザベトは聖母マリアにむかって「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたはなんと幸いでしょう。」聖母マリアの信仰のことをしめしています。

 

主がおっしゃったこと、聖母マリアが信じたことばとは、お告げのときに天使を通して告げられたことです。「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子をうむ。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になって、いと高き方の子と言われる。神である主は彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家をおさめる。その支配は終わることがない。」聖母マリアはそれを信じました。信じ続けました。イエスが生まれて普通の子どものように成長して、長い間、聖書では30年くらい普通の生活をして、その後で宣教活動、いろいろな奇跡、福音宣教をはじめました。やがて受難と復活。そこで聖母マリアが信じたことが実現します。ずいぶん後のことです。聖母マリアもその間ずっと信仰のあゆみを続けていました。その子に対する預言、ダビデの王座を引き継ぐ。これは今日の第一朗読にみられるところです。ベツレヘムから出る指導者。主がたてた新しい方。当時のユダヤ人にはそれはメシアのこととわかっています。

 

実際イエスはベツレヘムにうまれ、この預言がキリストにおいて実現します。中では天使たちの言葉に基づいて「こういう権威をもって指導者になる」と。ここに興味深いことがあります。「彼は大いなるものとなる。その力は地の果てまでおよぶ。」だからダビデのことより偉大。「彼こそまさしく平和である。」その預言はほかのところにもあります。イスラエルもキリストは平和の君と言われます。クリスマスにおいて平和が生まれるといってもいい。

 

平和の問題はかなり大きいです。世界中で、世界平和を強くのぞんでいる国民といえば、日本の国民ほどのぞんでいる国はないかと。でもいくらのぞんでもなかなか世界は平和になりません。なぜかというと人間の心に平和がないからです。人間の心に平和がないかぎり世界は平和にならない。どうして人間の心に平和がないかというと人間と主なる神のあいだに平和がないから。人間は主なる神から離れて、その親しい交わりから離れて、もっとあるべき人間の姿を失ったのです。人間は主なる神の親しい交わりのため、その中に生きるためにつくれました。人間は自分の作られた目的から離れているから心に平和がないのです。

 

キリストこそ、まさしく平和である。というのはキリストご自身の中に主なる神と人間の平和ができたわけです。まずキリスト一人のうちにキリストご自身はまことの神でありながらまことの人間であるからです。キリスト一人のうちに主なる神と人間のまったくの和解・平和・道がすでにできています。だから私たちにも主との平和に戻る道がそこに描かれています。それは特に第二朗読に見られるところです。キリストがご自分を捧げたことは(十字架のことですが)最後に言われます。この主のみこころに基づいてただ一度イエス・キリストの体が捧げられたことで私たちは聖なるものとされたのです。聖なるものは註釈にあるように罪をゆるされ心が清められて神に近づくことができるようになったのです。主なる神に近づくことが主との平和のうちに生きている人です。そうなるには、第二朗読でキリストはご自分の従順によってその道をひらいていくと私たちに説明しています。「あなたはいけにえや捧げ物ををのぞまず、むしろ私のために体ををそなえてくださいました。そこで私はいいました。『ご覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」

 

そこでまた誤解もあります。多くの人は自由になりたい。でも自由と従順は反対語のようです。人間の社会ではそうです。人間の社会の決まりや法律はわたしたちのしたいことをさえぎる・押さえることもあるから、縛られた感じがします。ただ主なる神にたいする従順、それはわたしたちを自由にします。主に聞き従うわたしたちは、主に平和に導かれて主との平和のうちにわたしたちの本来の姿、一番深いところにある主にまったく良いものとして作れられた自分、本当の深い自分らしく生きるようになるのです。一番奥深い自分らしく生きるということは人間のなによりもの自由・なによりもの喜びです。そこまでいくにはわたしたちもキリストにならって聖母マリアにもならって「みことばどおりこの身になりますように。」こうしてキリストは従順によってわたしたちの救いをなしとげました。

 

そこで一番深い幸せと喜びに。わたしたちはどうしますか?わたしたちは主に聞き従いますか。