待降節第3主日 2021年12月12日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ゼファニヤ書 3章14~17節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章4~7節

福音朗読 ルカによる福音書 3章10~18節

 

お話の要約

待降節の第3主日は、毎年、喜びの主日と呼ばれています。そのテーマは、特にきょうの入祭唱に示されています。「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」。きょうの第2朗読からの引用でもあり、テーマがそこに表れています。

 

福音書を読むと、洗礼者ヨハネの説教の中で、回心のことと裁きのことが伝えられています。回心とか裁きとか聞くと、それほど喜ばしい感じにはならないだろうと思うのですが、それなのに、最初にヨハネはほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせたのです。みなさんご存知だと思いますが、福音は、もとは〈よい知らせ〉です。回心と裁きがどういう意味で〈よい知らせ〉か、ちょっと考えるところがあると思います。

 

このことについては、理解するために大きな事実を心に留めるべきです。人間のあらゆる不幸のおおもとは、罪です。自己中心的、傲慢の心。原罪の影響で、私たちの内にできてしまった、ある意味、本性と違う偽性質みたいなものです。本性は、主なる神によって私たちが創られた本来の姿です。その上に、そういう偽性質みたいなものができてしまっているのです。それが人間の不幸のもとです。その意味では、喜ばしい知らせでもあるのです。というのは、人間はどちらかというと、まずひとつ大きな課題は自分の自我から出ること、自分自身から解放されることです。多くの場合、人は、外のことを考えて、この悩みあの悩み、あの人が変わったらこの事情が変わったら、いろいろそうだったら幸せになれるのにと思いがちです。でも、実は、そのおおもとは、私たちひとりひとりの心にあるのです。その心に主なる神との平和が無ければ、どんなに優れた周囲の状況があっても、本当の喜びにはならないのです。主なる神との本当の心の平和があるなら、どんなにつらい悩みがあっても、心の奥底にまだ喜びがあるのです。そこが大きな違いです。それなら、ここで聖ヨハネのメッセージをちょっと読みなおしてみましょう。

 

ひとつは、回心のところをみれば、聖ヨハネが求めているのは、回心として何かの重い苦行とかいろいろな長々とした祈りとか、犠牲、生贄、そういうことは言っていないのです。どちらかというと、日常的な生活の中の正義、正しい心、寛大な心を求めています。いわゆる日常茶飯事のことです。それもひとつ考えるところです。主なる神に仕えるというなら、ある人のイメージは、たぶん、教会に来ていろいろ祈って、教会で奉仕することも先に考えるかも知れないです。でも実は、主なる神の眼からみたら、むしろ自分の日常生活の中で、自分の置かれた環境で、家庭生活とか職場で、そこで主なる神に仕えてほしい。そこで主の愛を証してほしい。まずそれは、教会の中より外のほうがその意味では大事です。

 

そして、裁きのことですが、ここではひとつのイメージが使われています。私たちは、たぶん農民はあまりいないと思うので、注釈のところをみると、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにすると。箕という言葉は、穀物の実と殻を分ける道具で、実と殻が混じり合ったものを宙に飛ばし、殻だけを風で飛ばして取り除く。そういう当時の農業の中での習慣です。それは裁きのイメージです。その麦を倉に入れて、殻を火で焼く。それは善人と悪人の区別。善人は倉に入れて天国に行って、悪人である殻は火で燃やされて地獄に落ちる。そういうようなイメージです。でも、それはまた、もうひとつ個人にも当てはめられます。先ほど言ったように、実際に私たちには、ある意味では二人の自分があるんですね。本性の自分、主なる神が創られた本来の自分の姿がまだあります。でも、その上に偽性質みたいな罪による者ができてしまったのです。だから、主の救いはその二人の自分を分けて、本来の自分を救ってくださって、自分の罪を火で焼いてしまい、滅ぼすのです。それが、主が私たちを解放してくださる一番根本的なところです。

 

人間のあらゆる不幸のおおもとである罪、特に自己中心的、傲慢な心。それを主が滅ぼしてくださいます。そして、本来の、本当の自分。一番自分らしい生き方、そういう心の自分がそこから解放されて、主の内に、主なる神との親しい交わりに入ることができるようにしてくださるのです。そして、人間はそのために創られたのです。主なる神は、人間を、愛をもって愛のために創られたのです。ご自分との親しい交わりのために創られたのです。それが私たちの存在の目的。それで私たちの存在の目的を達成するなら、それこそ人間の喜びです。そのために主キリストはこの世に来られて、そのために神の子でありながら、へりくだって人間の子になって、栄光に輝いていたキリストは、今度は赤ちゃんになって、聖母マリアの腕に抱かれて養い育てられ、そこまで私たちに対する愛のためにへりくだったのです。それは、私たちを解放するためです。人間を特に不幸にするあらゆる罪から解放して、人間のこの上ない、限りない完全な喜びに導きいれるために来られたのです。