年間第25主日 2021年9月19日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 知恵の書 2章12、17~20節

第2朗読 ヤコブの手紙 3章16~4章3節

福音朗読 マルコによる福音書 9章30~37節

 

<お話の要約>

今回の福音書では、先週読まれた箇所(マルコ8・27-35)に続いて、キリストがまた自分の受難、死と復活を予告します。先週は、その予告した後で、聖ペトロはキリストをいさめ始めたのです。でも、いさめ始めた聖ペトロに向かって、キリストはむしろ聖ペトロを叱って「サタン、引き下がれ」と言われたのです。

 

今回は、キリストが同じように予告したら、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と、聖マルコが伝えています。どうして怖かったかというと、説明されていないのですが、思うには、ひとつはもしかしたら聖ペトロがそんなに叱られたから、自分たちも同じように叱られたくないという思いもあったかも知れないです。でも、もしかしたら、それより大きいのは、キリストは死について話しています。ご自分の死についてです。でも死そのものは怖いものです。特に、キリストの死は弟子たちにとっても怖いと思います。というのは、弟子たちはすべてを捨ててキリストに従ったんです。すべてをキリストに懸けています。自分の生涯を。だから、自分の生涯を懸けているキリストが死んでしまったら殺されたら、自分たちはどうなるか…そういう恐れもあったのではないかという気がします。

 

それに、「この言葉が分からなかった」ともなっているんです。分からなかったから尚更怖いという思いにもなったでしょうけれど、でも、どうもその言葉そのものはそんなに分かりづらいものではないと思います。抽象的でも難しい話でもないです。わりにはっきりしている話です。人々の手に引き渡され、殺されて、その後復活する。その中で普通と少し違う言葉といえば「復活」です。でも、当時は、復活はよく信じられていました。一応、復活としては、世の終わりにみんな一斉に復活するというのがユダヤ人の間では一般の信仰でした。ただ、だれかが先に復活するというのは、確かに思いのほかのことでした。でも、復活そのものは弟子たちにとってはそんなに分かりづらい言葉ではなかったんです。でも、言葉がそんなに分かりづらいものでなければ、どうして分からなかったか。そういう問いにもなると思います。そこも説明がないのですが、思うには、もしかしたら自分たちの感情が先にくるからではないかと思います。聖ペトロのようにキリストにすべてを懸けていたから、キリストにとても期待しています。だから、そういうまったく逆のことを言われたら、そのショックでほかの言葉の意味をそれより深く考える心の余裕がなくなったのではないか、頭の中が真っ白になるというか、そういうようなことだったのではないかと思います。

 

でも、弟子たちがどれほど分からなかったか、その後からよく示されます。途中で弟子たちはだれが一番偉いかと議論し合っていたそうです。まさにキリストが言おうとしていることが分からなかったのです。ここではっきり言葉は出ていないけれど、別の福音書でキリストは、自分は仕えるために来られたと断言しています。自分の命を人に捧げるために来られたと言われました。確かにここでも予告している自分の受難と死と復活は、人のためです。弟子たちはそれに気づかないで、だれが一番偉いかと議論し合っているのです。それに対してキリストは、偉くなりたいならみんなに仕えなさいと、逆説的な教えをそこで伝えます。その具体例として、一人の子供を抱き上げて言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。でも、子供を受け入れるということが、偉くなりたいという問題とどういう関係があるか、ここで考えてみたんです。

 

思うには、やはり偉くなりたい人なら、なんとなく偉い人と付き合いたいということになるのです。自分自身が何かの成績などで有名になったり、学歴で偉くなったりすることもあるのですが、そこまでは難しいというかそれほどでもないという場合は、偉い人と付き合うことができたら、間接的に偉い人の友達になっているということで、自分も偉く見られるというような傾向があるのです。または、偉い人の話にもっと聞き入ったり、なにかの偉い先生の話をもっと聞こうとしたりします。でも、キリストは逆に子供に聞く。子供を受け入れる。子供は全然偉くない人の象徴ですね。ほかのところで言うと、小さな人々。苦しんでいる人、困っている人、悩んでいる人とか、そういうような人を受け入れる、その人と付き合うことが、人に仕えることになるのです。特に、いまの時代なら、現代社会では寂しい思いをしている人がたくさんいると思います。確かに、物質的なものより精神的は支えとして、その人の話を聞いてあげることによって、その人の寂しさをいくらでも癒すことになると思います。

 

でも、人はどうしてそんなに偉くなりたいと思うのでしょうか。結局、自分の価値の問題だと思うのです。誰でも自分は価値のある存在だと思いたいです。もし自分がいわゆる人間のくず、何も無い者、落ちこぼれのような感じの人だったら、とてもつらい思いをします。考えてみれば、多くの場合は、人は人々の共感に自分の価値を求めるところがあるのです。周囲の人々が自分を見て、すごいとか偉いとか言うところに自分の価値を感じる傾向があると思います。でも、そこが問題点でもあるのです。キリストの教えでは、私たちは自分の価値を人々の評価に求めるのではなく、主なる神に求めるべきです。主なる神の愛に求めるべきです。主なる神の限りない愛。私たちを愛をもって創造されて、さらに愛をもって罪を許して救ってくださる神の愛に求めるべきです。でも、それを一歩進めたいなら、主に喜ばれることに自分の価値を求めるべきです。その主の愛に自分が心から応えて、周囲の人々が自分をどう見てもいいです。主が自分をどう見ておられるか。そこが本当のキリスト者なら一番関心のあるところです。そしてそれが一番確実なものです。というのは、この世の中でみんなに偉いと言われた方でも、死んでしまってしばらくしたらだいたい忘れられます。でも、主の前で主に喜ばれる人は、主のもとに行って、永遠に主の愛のうちにいて、その限りない幸せを感じて主から栄光をいただきます。