年間第19主日 2021年8月8日

 

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 列王記上 19章4~8節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章30~5章2節

福音朗読 ヨハネによる福音書 6章41~51節

 

お話の要約

 皆さん、こんにちは。今回はまた先週からの続きで、ヨハネ福音書6章「パンと魚の奇跡」とキリストがその意味を説明している場面です。今回も前回と同じく、群衆はキリストの言われることが分からない。キリストが「私は天から降(くだ)ってきた命のパンである」と言われたことに対して呟き始めたのです。「天から降った」と言うけれど、自分たちはキリストの由来を知っている、ヨゼフとマリアのことを知っていると。実はここに神秘があるのです。ヨハネはその福音書の最初に説明しています。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。言葉は肉となって私たちの内に宿られた。」でも群衆はその神秘を分かっていないから、どうやって天から降ってきたのか、どうしてそう言うのか分からないのです。

 

キリストは信仰について話します。「私を遣わしてくださった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私の元に来ることはできない。」キリストの元に来ることは、信じることにも言い換えられます。それは恵みによるのです。御父が引き寄せてくださることによって。でも、人間は全く受け身によるのではない。キリストは言われます。「父から聞いて学んだ者は、皆私の元に来る。」人間は父から聞いて学びます。教会としてはその両方を信じています。私たちの信仰、救いは恵みによるものですが、人間の自由も働いているということです。恵みと自由の関係はとても神秘的です。父が引き寄せてくださらなければどうしようもないのではなく、「引き寄せられていないのであれば、引き寄せられるように祈り求めなさい」と聖アウグスチヌスも言っているように、祈りによって恵みを求めることができるのです。

 

人間の思いと力によって救われるのではないのです。人間の自由が働くのは、それを求めるかどうかにかかってきます。でも、どうやって?主にその求める心を戴けるように祈ることは大事ですが、自分でもできることがあります。恵みを戴くことについて、自分でもそれを受け入れられるように求めることによって、何について考えるか集中することによってです。御父が引き寄せるのであっても、人間はもともと求めているのです。教会のカテキズムにあるように、「神への憧れは人間の心に刻まれています。人間は神によって神に向けて創られているからです。神は絶えず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はただ神の内にだけ、求めてやまない真理と幸福を見出します。」

 

主なる神は既に引き寄せておられます。心に刻まれた憧れを通して。ですから、引き寄せられていないと思う方は、それに気づいていないということです。引き寄せられるように祈り求めると同時に、自分の心に刻まれた憧れに気づくようにという祈りと振り返り、心を見つめることが大事です。どうやって?一つには自分の望みを極めること、自分は本当に何を望んでいるのか、一番深くて強い望みは何なのか、いくつもある自分の心の中の望みを取り上げてリストアップし極めていくと神への憧れに行きつきます。人間は幸せを自然に求めているので、その幸せを極めていくと主なる神を求めることになり、その憧れについていけば、人は自由に主に引き寄せられます。引き寄せる方は強制的ではなく、人が求めていること、その愛によって引き寄せます。人は何か良いものを見せられたら自然にそれを求めるようになるし、おいしそうなものだったら自然に食べたいと思う。人と出会って凄くその人に惹かれるなら、自然にその人と近くなりたいと思う。それは主なる神の引き寄せ方です。私たちには既にその求める心があるので、それに気づくために祈りと心の振り返り、望みを極めることがとても重要です。

 

自分の意志で主に近づこうとするのはなかなか難しいし、無理矢理そうしようとするとなかなか進まない。本当の信仰の歩みの力は、憧れからくるのです。憧れているから歩もうとする意欲が出てくるのです。その意味で、今日のキリストの言葉はすごく重要です。私たちは信仰の歩みの中で、今の状態に留まらないで、自分の心に既に刻まれている神への憧れに気づき、それによって主の元に近づきたい。そういう信仰の歩みを共同体としてするなら、私たちは一番良い状態の「共に祈り、共に歩む」ことになるのです。