年間第17主日 2021年7月25日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 列王記下 4章42~44節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~6節

福音朗読 ヨハネによる福音書 6章1~15節

 

<お話の要約>

今回の福音書は、ヨハネによる福音書が伝えている、キリストがパンと魚を奇跡的に増やした場面です。ヨハネによる福音書の場合は、特に象徴的な意味が重要です。ヨハネは、主の奇跡を、他の福音書では、力のわざと呼んでいますが、しるしと呼んでいます。力はもちろん、示している意味、何を指しているか、それをヨハネは強調したいのです。今回の福音書を読んだら、象徴的な意味、何を指しているかというと、主の恵みの偉大さを示しているのではないかと思います。第一朗読にも預言者エリシャによってパンを増やした奇跡があります。パン20個によって100人が食べて、食べきれずに残したわけです。これに比べて、キリストはパン5つによって5000人を食べさせました。規模が随分違うのです。それにあり余るのです。12のカゴにいっぱいになりました。最初の量より、食べて残った量の方が多いです。それだけ主の恵みが豊かなのを強調しています。

 

その話をもう少し注意深く読みます。一つは、イエスはフィリポに聞きました。「この人たちを食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」それはフィリポの心を見るために聞いたそうです。イエスは自分が何をしようとしているかはわかっていたのです。心を見るはどういう意味かというと、ヨハネが強調しているように、イエスは人間のうちに何があるか常にご存知の方です。人について、何も聞く必要がなかったのです。自分が知るために心を見るということではなく、フィリポ自身が、自分の心に気づくために聞いたと思います。どのくらいの信仰があるか、キリストご自身に対する思いはどういうものか、それをフィリポがわかるように、です。フィリポは他の弟子と一緒にイエスが水をぶどう酒に変えた奇跡を見たのです。そのあとのことです。イエスのことを、もっとわかったら、多分、答えはなかったと思います。ここでのフィリポは人間的な思いで、200デナリオン分のパンがあっても足りない、かなりのお金をかけても無駄という人間的な思いです。でも、もしフィリポがカナのことを思い出して、主が「この人たちを食べさせるにはどこでパンを買えばよいだろうか」と聞かれた時に、「主よ、あなたはご存知です。」というような答えをしたのではないかと思います。

 

それにもう一つの興味深いところは、皆が満腹して食べ終わったら、主は、「少しも無駄にならないように、残ったパンのかけらを集めなさい。」無駄にならないように、と言われます。特にこれが指している主の豊かな恵みを考えたら、私たちだったら、豊かな恵みをいただいているけれど、無駄にしているでしょう。恵みを集めることによって、無駄にしないです。集めることといえば、それは感謝の祈りだと思います。いただいた恵みを毎日のように思い出して、寝る前に、今日はこの恵みがあった、あの恵みがあったと、自分なりにしばらく主に感謝すること。その日いただいた恵みを集めて、無駄にならないように感謝に変えていきます。そうしたら、もっと豊かに恵みをいただくことになるのです。

 

今日は特別に聖アンナを記念して祝っています。あいにく、全教会として祝うことはできないし、パーティーみたいなこともできませんが、霊的な意味で祝います。守護の聖人は、それも一つ、主の恵みだと思います。というのは、主は確かに、御自分自身で全てを与えてくださいます。でも、主は人を通して与えたいと望んでおられるところもあるのです。人間に栄光を与えることになります。その中の一人が、私たちの聖アンナです。この教会は、聖アンナを通して主に捧げたということによって、聖アンナは私たちに特別に心を持っていると思います。それは私たちが主の恵みをいただいて、その恵みを心に留めて無駄にしないように、主に感謝して、ますます主に喜ばれる共同体になるように、私たちはそのことを考えて、また一緒に祈り、一緒に歩みたいと思います。