年間第16主日 2021年7月18日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミヤ書 23章1~6節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 2章13~18節

福音朗読 マルコによる福音書 6章30~34節

 

<お話の要約>

先週は、キリストが使徒たちを派遣した場面でもありました。今週は、弟子たちが戻ってきてその活動や教えたことを報告します。そこでキリストはちょっと休みをとりましょうと出かけたのです。ところが行った先でもうすでに群衆が集まっていたから、キリストは「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」。その憐みのわざは、もちろんキリストはたくさん行なっています。そのわざの中で、病人を癒したり、悪霊を追い出したり、またはこの箇所の後でパンと魚を増やして人々に食べさせたりするのは、慈しみのわざの中でもわかりやすい面があると思います。ただ、ここでは憐れんで、いろいろと教え始められたのです。だから教えること自体、それも憐れみのわざです。それは結局、人間の本性に基づいています。人間というものは、動物と天使のあいだのような存在です。動物と同じように衣食住とか具体的な身体のことなど求めていると同時に、霊的というかもっと深く精神的な面で、人生の意味や本当の生き方も求めています。そしてそれは人間にとってはすごく重要なものです。そういう飼い主のいない羊のような有様、人間が精神的に迷っているとき、そういう人に対して本当の人生の意味、その生き方を教えるのは憐れみのわざです。

 

前回はこの弟子たちの派遣の場面を機会に、教会の宣教活動についてちょっと考えてみました。でも今回はこの場面をみれば、宣教される一般のかたのことをもうちょっと考えたらいいと思います。というのは、いまの私たちの時代にもそういうふうに迷っている人、なんとなく求めている人、ぼんやりというか、もやもやした形で何か物足りないと感じて求めている人が少なくないと思います。ただ、キリストが答えを与えてくださるところまでいかない人が多いと思います。たとえば聞いた話では、ある信者でない人が信徒の友だちに教会に連れて行ってと頼んだことがあったそうです。自分は何かを求めていました。でもしばらくしたら、ペットを飼うようになってそこで満足して、もう教会に行かなくてもいいということになりました。もとは神さまを求めていても、極めていくとそういうことになるのです。ペットとの愛情もいいことです。でもそれに留まって、もっともっと深い神さまとの愛の交わり、その愛情に気づかずに終わったのです。

 

またほかのところで聞いた話ですが、ある人は特に若い人に対して、夢中になる趣味を探しなさいという助言を与えます。そういう夢中になるほどの趣味があれば、確かに人間にとっては心理学的にも大きな役割があります。それは本当に自分個人のもの、もっと自分の記録というか精神がそこに入るから、人生の中の挫折とか困難、いろいろな苦しみを乗り越える力にもなるんですね。それは自分のひとつの頼りになるようなものです。でもそれも、人間のもっと深い求めを考えたら、低いレベルにまだ留まっています。というのは、夢中になるほどの趣味にそれだけの意味があれば、我を忘れるほどの神さまとの愛の関係は、なんと力強いものになるでしょう。趣味は精神的な支えになるでしょうけれど、でも主なる神の愛は私たちの存在そのものの支え、そしてその意味を与えるものです。教会のカテキズムにあるように「神への憧れは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けてつくられているからです。神は絶えず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はただ神のうちにだけ求めてやまない心理と幸福を見出します」。それは確かなことです。ただ、いまのように人がそこまで行かず、その前の段階で留まって、もっと深いところに気づかない人が多いような気がします。

 

考えてみれば、いくらペットを飼ってその愛情で心を満たされてみても、いくら夢中になる趣味をもってそれが心の支えになっても、ペットを飼う人も趣味をもっている人も死にます。そうしたら、どうなるんですか。でも、そのときでも、人がその前の段階で留まることもあるのです。ある人は、自分が出会った文句が「人生は一回きりの旅」。それは自分にとってすごく重要なことになったのです。自分が思っているのは、人間は死んだらお終い、後は何も無い。それを考えたら、一回きりの旅ならこの大切な人生を精一杯生きようと考えたそうです。そこまではいいでしょうけれど、それはまだ前段階で留まっています。というのは、死後の世界はどうなるか、そこまで考えていないのです。また本人自身も、ちょっと虚無的な考え方かも知れないといくらか感じているのではないかと思います。でも、なんとなくその先に考えを進めようとしないのです。それは現代社会のあらゆる場面というか人の心理です。それを考えたら、教会の福音宣教はどうなるか。まずそういう求めている人がいることは機会です。キリストが人生の本当の意味、本当の生き方を教えてくださる、心を満たす愛を与えてくださると気づいていけば、人はもっと進んで受け入れると思います。でもまず私たちも、世に生きる共同体になる必要があるのです。信じていながら、その前段階で私たちも留まらないで、いつも先へ進んで、キリストとますます深い関係に入ることによって、まわりの人もこの世を超える心理と愛にもっと気づくようになると思います。