年間第14主日 2021年7月4日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エゼキエル書 2章2~5節

第2朗読 コリントの信徒への手紙二 12章7b~10節

福音朗読 マルコによる福音書 6章1~6節

 

<お話の要約>

皆さんこんにちは。今回の福音の箇所は、他のところとちょっと違う場面だと思います。福音書にはキリストの教え、たとえ話、奇跡の話が多く出てきますが、ここはキリストの里帰りの話です。たぶん宣教活動を始めてから初めて弟子たちと一緒に里帰りし、他のところでもそうしたように会堂で教え始められたのです。そのことを聞いて集まって来た故郷の人たちは驚きました。今までのイエスの姿とずいぶん違う姿が見られたからです。

 

そこには一つの教訓もあるような気がします。イエスは宣教活動を始めるまでは、ごく普通の生活をされていただろうと思われます。もし故郷にいる間、特に目立った奇跡を行ったり教えたりしていたら、皆がそれほど驚くはずはないので、やはり宣教活動をする前はそこまでしなかったので、皆驚いたのです。でもイエスの生涯を考えたら、ルカによるとイエスは30歳頃に宣教活動を始め、他の記録からもその期間はおよそ3年と考えられています。宣教活動をし受難を経て十字架に掛けられ死ぬまでの期間は、33年の生涯のうちで3年間、その前の期間は10倍位です。3年に対する30年、どうしてキリストはそのように長い年月を過ごしたのでしょうか。

 

その説明は聖書にはありませんが、一つ意味するのは、普段の生活の大切さだと思います。キリストは普段の日常茶飯事と言われる生活をして、その生活を祝福してくださったのです。神様の前に喜ばれるものにしたのです。この教えは特に最近だったら、小さき花の聖テレジアが教えていることです。主の前で自分はどのくらい偉いこと、目立つこと、人を驚かせることをするかということより、どれほど愛を込めて些細なことでも行うかということが一番大事です。聖テレジア自身は目だったことは一切しなかったので、聖人に上げられる時には文句を言った人もいたそうです。でも教皇様は言われました。「ごく些細なことに非常な愛を込めて行ったから偉大な聖人です」と。それはキリストも私たちに言われていることです。私たちは偉いこと、目立つことはしなくてもいい。ただ、今の日常生活を主に対する愛を込めて、隣人に対する愛を込めて行うなら、それだけで十分主に喜ばれることなのです。

 

もう一つ、人々は驚いただけではなく躓き(つまずき)ました。同じように驚いても、この人は同じように育ったのに凄いと感心してキリストを信じるようにもなれるのに、そうではなくキリストに躓いたのです。知っているつもりで思い込んでいたから、どうしてもその人が知恵と力を持っていることが受け入れられなかったのです。出る杭は打たれるという心理だったのではないかと思われます。ここにも一つ、私たちへの大事な教訓があります。信仰生活を長く続けるとマンネリ化して、信仰生活のことを分かっているつもりで、自分ができないこともわかって、まあいいや、できないけれどこれでいこうという思いになりがちではないでしょうか。それはキリストを知っているつもりの態度だと思います。キリストのことはこれぐらい、私の求めているのはこれぐらいと。でも実は、主にはもっと深い信仰、深い愛があるのです。

 

キリストが私たちに求めていることは、もっと厳しく自分の教えを守るようにということより、もっと深く自分の愛を分かってほしい、自分を信頼してほしいのです。今まで私たちが知っているキリスト以上に、更にキリストのことを深く知る可能性、愛する可能性があります。それは私たちが求めるべきところです。主が私たちに求めてほしいところです。そうしないと私たちもナザレの人々のようにキリストを知っているつもりで、キリストのもっと素晴らしいところ、もっと豊かな恵みを与えてくださることがわからずに過ごす、そういうことになったら本当に残念です。私たちもそのことを心に留めて、主の愛をもっと深く知るように求めましょう。