死んだ人にも生きている人にも主となられる為

大船教会では6月に久しぶりの初聖体があります。コロナ禍の中でかなり難しかったですが、日曜学校リーダーのご協力で少しずつ準備してきました。コロナ禍以前でも子供が少なかったですが、去年から寂しいぐらい子供の姿があまり見えないです。だから今年の初聖体を特別に主に感謝しています。子供には大きな恵みになるようにお祈りしています。

勿論、子供達は人間としてもキリスト者としてもまだまだ成長する必要があります。そして大きくなったら信仰生活を続けるかどうか私たちにはわかりません。今の時代だから習慣としての信仰、親の教えによる信仰は持ちません。携帯電話やSNSの時代において昔に比べたら子供に対する社会の影響がうんと強くなって親の影響が弱ってきました。だから子供たちは信仰を自分のものにしなければ社会に出たら自然に教会を離れていきます。

 

それで子供たちが信仰を自分のものにするように私たちにできることは何でしょうか。簡単な問題ではないですが、私が思うには先ず私たち大人が信仰を深めることです。バーチャル社会は魅力がありますが、人間はそれより本物を求めています。だから本物のキリスト者、信仰を自分のものにしたキリスト者は、子供たちが信仰を自分のものにするように働きかけることができます。

 

本物の信仰とは何かと問われたら聖パウロが答えます。

 

「私たちは、生きるとすれば主の為に生き、死ぬとすれば主の為に死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられる為です」ローマ 14 : 8-9

 

私たち大人にとって子供たちの初聖体は自分の信仰のあり方を振り返るいい機会になると思います。私は主の為に生き、主の為に死ぬ、主のものですか。そうでなければ、そうなりたいですか。果たして私は何の為に生きていますか。何の為に死んだらいいと思いますか。私にとっては何が一番大事ですか。

 

キリストを信じているからと言って、キリストを自分の「主」としていると限りません。信じていながら、キリストが自分の為におられることにとどまることもあります。自分がキリストの為にいる、キリストのものだ、と決心した時に初めてキリストを「主」とします。