復活節第5主日 2021年5月2日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 9章26~31節

第2朗読 ヨハネの手紙一 3章18~24節

福音朗読 ヨハネによる福音書 15章1~8節

 

お話の要約

復活節に教会はヨハネ福音書を読みます。それは、ヨハネ福音書はほかの福音書よりも特にキリストの神秘について語るので、それを深めていくためです。ですから神秘的なところを強調します。偉大な復活の神秘を黙想している教会は自然にヨハネの福音を黙想し、祝っています。

ご自分は“まことのぶどうの木”であると言われます。有名な喩えです。キリストと私たちとの関係の神秘的なところが示され、大事な教えもあります。ここを読むと或る意味で極端とも思える表現があります。キリストは断言されます。「私を離れてはあなたたちは何もできない」と。これは強い言葉ですが、周りを見るとそういう感じがしないかもしれません。というのは、キリストを信じない人、知らない人でも活発に働いている人は大勢いて、外からはそれなりに幸せにも見えますから。

 

ではキリストはこの言葉で何を言おうとされるのでしょうか?根本的なことを言えば、厳密には人は神から完全に離れたら無に帰ってしまいます。私たちはたえず神が存在させてくださっている被造物です。でも人間は存在させていただきながら、その神から心が離れてしまうことがあります。ぶどうの木のイメージで言うと、キリストはまことのとぶどうの木、私たちは枝です。ぶどうの木には、幹から離れるかどうかの意志はありませんが、人間にはそれがあります。枝が、木につながれているけれど、縛られるよりは自分の自己実現に生きたいとか思ってぶどうの木から離れたとすれば枯れてしまいます。結果的には木の喩え話にあるように,木につながっているか火に投げ入れられるかのどちらかになります。それは一つの大事な選択です。

 

キリストはご自分につながっていなさいと言われます。それなら私たちにもするべきことがあるはずです。離れないで、離れるな、という戒めが与えられます。では、どうやってつながっているのでしょうか。この文章を見ると、キリストは「あなた方は私につながっていて、私の言葉があなた方の内にいつもあるならば」と言われます。「内にある」、この言葉にも深い意味があります。単に記憶しているということではなく、その言葉が自分の内に生きている、というような感じです。その言葉が自分の生き方を決定している、それがキリストにつながっていることです。そのためにキリストと同じ思い、望みを持ち、同じように行う、自分の意志をキリストと一つにすることです。

 

キリストはほかの箇所で「まず神の国とその義を求めなさい」と言われました。これは心と意志がキリストにつながっていることです。しかし私たちは弱いので、自分の力でそこまで行けません。それもこの喩えのイメージに通じます。つながっている木は実を結びますが、枝は自分の力で実を結ぶのではなく、幹から流れてくる樹液によって実を結びます。私たちも同じです。

 

樹液は比喩的には聖霊の力であると言えます。その聖霊の働きによって実を結ぶのです。もっと豊かに樹液を頂くために私たちはそれを求める必要があります。人間の体であれば血液の循環が体の健康を保ちます。血管の中に血栓、固まりができると体の一部分、肉が死んでしまいます。聖霊を妨げるものを除くためにまず主の助けを求めて、「聖霊来てください。あなたを慕い求める心をください。み言葉を聞いて行う心、あなたに身をゆだねる心を与えてください」と祈りましょう。これは重要な祈りです。聖霊の力によってキリストにつながっているなら、私たちは豊かに実を結ぶことができるでしょう。