復活節第3主日 2021年4月18日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 3章13~15、17~19節

第2朗読 ヨハネの手紙一 2章1~5a節

福音朗読 ルカによる福音書 24章35~48節

 

お話の要約

復活節第三主日を迎えました。私たちは少しずつ復活の神秘を黙想しながら過ごしています。今日の朗読箇所はキリストの出現と弟子たちの宣教場面を述べています。ここで一つ興味深いところは、朗読を三つとも読むと、回心、悔い改め、罪の赦しが繰り返されているということです。そもそも回心、悔い改めは、四旬節のテーマと考えがちですが、弟子たちの宣教を見ると、彼らはキリストの復活を宣言したのち、聞く人たちに回心を呼び掛けています。十字架が回心の呼び掛け、きっかけ、動機になっているのです。

 

これは復活とどのようにつながるのでしょうか。一つの手がかりは、ペトロが説教の中の「だから自分の罪が消し去られるように悔い改めて立ち返りなさい」と言うことばです。二つのこと、悔い改めて立ち返る。立ち返るも悔い改めと同じように回心を指しています。「立ち返る」とは辞書を見ると「原点に戻る」という意味がついています。信仰の原点とはどこにあるのでしょうか?信仰の面で言うと、今迄なかった原点に戻るのです。この原点は神との親しい関係を指しています。アダムとエヴァが罪をおかす前の状態、その原点に戻ることです。つまり人間には、神に対する態度として、原罪の結果、自分の力や思いで生きたいという自己中心的なところがあり、特に信仰の面では神は邪魔者という、そういう感じのものがあるのです。

 

自分で生きたいという望みに対して神という絶対的な統治者がいるのは不都合だ、いやだ、という気持ちで、これは神の存在を否定するか無視するかのどちらかです。ずっと前ですが或る人が言った言葉を忘れることができません。「すがりたくない」と。この態度こそ恐ろしいものです。神により頼みたくない、自分の力で生きたい、というものです。

 

他方、常にキリストを信じている人にはこれとは違う、ほかの現象があります。そこまで(すがりたくない)は言わないで、キリストを信じています。しかし、自分なりに信じて、自分のためにキリストを信じています。宗教に関する事も自分のためにする、という傾向あります。信仰の歩みにおいてキリストを信じている人でも、原点に立ち返る必要があります。キリスト中心になるように求められます。

 

ここにキリストの復活の大切な意味があります。復活自体は私たちの世界観をひっくり返すような出来事です。覆すような出来事です。特に現代人は、世界、宇宙の事については主に科学の知識でとらえています。地球は進化論やビッグバンとかそういう説によって説明されています。でも結局、復活は事実であって、時空を超えています。時空を超えた方がおられ、その方、キリスト、が時空に突入されたのです。その意味です。ですから人間は何となく放っておいてほしい、と考えるのです。しかし、復活を無視しようとしても、その方が自分の方から時空に突入されました。復活によって。

 

ですから復活を本気にして信じると、私たちは現代人と同じ世界観を持っていないことになります。ものの見方、世界観が変わります。そして特に、神を神として仰ぐことになります。第二朗読でヨハネは、「神の掟を守るなら、その人は神を知っている」と言っています。信仰は自分の為でなく、神を神として認め、神に従うことが重要な要素です。これこそ信仰の喜びの何よりの鍵です。自分のために信じている人ならいつまでも信仰の本当の喜びを感じることができません。

 

信仰の喜びは、神を神として崇め、自己中心ではなく、キリスト中心に生きるときに感じられます。自分の世界が、キリストによって、キリストの事を考え、キリストのもとに生活するものになり、私が自分の思いや力で生きるのでなく、主の恵み、力、主の言葉によって生きようとするときに本当の喜びを感じるのです。