復活節第2主日 2021年4月11日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 4章32~35節

第2朗読 ヨハネの手紙一 5章1~6節

福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節

 

お話の要約

みなさんこんにちは。今日は復活節の第二主日になります。毎年、この日はヨハネによる福音から聖トマスの場面が読まれています。キリストが最初に現れたとき、一緒にいなかったトマスは、それを他の人から聞き自分の目で確かめなければけして信じません。イエスはもう一回あらわれ、イエスを自分の目で見て信じるようになったという話です。とくに終わりのところ、イエスの言葉はとても興味深いです。「イエスはトマスに言われた。私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」

 

見ないのに信じる人は私たちを指しています。私たちは誰一人体の目で復活されたキリストを見たものはいないのです。でも信じています。イエスご自身の言葉からも私たちは幸いです。幸いとは何をさしているか、第2朗読に教えられています。それは私たちは世に打ち勝つことです。キリストご自身の勝利にあずかることです。聖ヨハネは福音書の中でイエスの言葉を伝えています。最後の晩餐のときにイエスは弟子達に言われた

「恐れるな 私はすでに世に打ち勝った」

主の勝利に私たちもあずかることになります。

 

どういう形であずかるか、ここで聖ヨハネがいうには、私たちは愛で生きるものになるということです。自己中心的な自分に打ち勝つ。その意味の自分の中にあるこの世、神に反する力に打ち勝つから愛する人になります。神を愛して、隣人を愛するようになります。聖ヨハネがいうには神のおきては難しいものではありません。英語訳を見るならこの表現は「負担にならない苦にならない」という意味があります。そこで一つ振り返る機会になります。神の掟は自分にとってはどういうものか 神のおきては負担になっているか。難しい苦になっているか。自分がはたして勝利にあずかっているか考えさせられます。なぜおきてが負担にならないはずかというと、神から生まれたものは世に打ち勝つものだからです。世に打ち勝つ勝利は私たちの信仰です。

 

神のおきてが難しく感じるなら、自分の信仰がどうなっているのか考えるとよいでしょう。私たちは洗礼をうけて、堅信もうけています。たしかにその時は神さまからの恵みがあります。それは疑いの余地がありません。秘跡は神さまが必ず恵みをあたえてくださると保証されています。ただ受ける側はどこまで受けているか、その中にどこまで働いているかは、人の信仰の度合いにもよります。洗礼の恵みが一つの潜在恵みになっている可能性があると思います。一般的に人は潜在能力を持っている場合があります。潜在能力とは、たしかに能力はもっていますが、何かの環境とか自分の心の状態や様々な事情でその能力を発揮していない・あらわしていない・しめしていないことです。ただ潜在のままです。

 

それと似ているように、私たちは洗礼を受けた恵みも潜在恵みになっている可能性があります。実際にいただいていても、十分あらわしていない発揮していない状態があります。どうしてそうなるか、一つ思うには隣の幼稚園のこどもたちをみて感じることです。小さなこどもは生まれながら育つ力がそなわっています。それはたしかなことです。神さまからさずかった能力です。ただとくに幼い子どもは不安とか恐れ、それが大きく妨げになることがあります。こどもはできるのに怖いから不安だから緊張しているから自分ができることをあらわしていないのです。

 

幼児教育の先生の一つの大きな役割は子どもとの信頼関係を築いて子どもが安心できるように信頼できるようにします。するとこどもは自分自身を出すようにできます。私たちも似たことがあるのではないでしょうか。恐れ・不安が妨げになる。恐れとか不安は、極めると本当の意味で主に身を委ねていないからくるのではないでしょうか。自分の思いで自分の力で主に従おうとうして、主のおきてを守ろうとする努力。自分の思いで自分の自分の力でしようとするなら難しい。負担に感じます。それはもともと主の御心ではないのです。主が恵みを与えてくださるのは私たちが、恵みの力で主の導きでおきてをまもるように。それだったら苦になりません。自分の力だけで頼っていないからです。

 

私たちはたしかに主を見ないのに信じるものだから幸いであることはキリストご自身の言葉によってわかっています。それは私たちにも求められたことでもあります。本当の幸い、世に対する勝利を経験するために、身をもって知るために、まずその身を主に委ねる必要があります。主に対する信頼。それは今日の典礼をとおして主からの呼びかけではないかと思います。