主の受難の典礼 2021年4月2日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節

福音朗読 ヨハネによる福音書 18章1節~19章42節

 

お話の要約

みなさん、こんにちは。今回、教会は盛大に主の受難を記念して祝います。それは確かに悲しいことですが、主の苦しみを通して私たちはいただいた恵みの偉大さを祝います。

 

今回の聖書朗読を見てみましょう。キリストの受難は人間的に考えたらそれほど特別なことではありません。人間の歴史の中では罪のない人が不正な裁きを受けて殺されたケースはキリスト以前にもたくさんありました。キリストの時代から今日にいたるまでもまだあります。その点ではかわいそう、あってはならないことですが、そのことだけだったらそれほどのことではない。たしかに心苦しいことではありますが、深いものになりません。もっと深い意味をとらえるには第1朗読、イザヤの預言がいろいろ私たちに説明しています。イザヤはキリストの時代より先500年前に預言しています。聖霊の導きでこの主の受難の解釈・説明をしています。たとえば主のみじめな姿のことも預言しています。「彼の姿はそこなわれ 人とは見えず もはや人の子の面影はない」もう人間ではないような姿になってしまったとあります。それは結局、私たちのために。

 

その預言は続きます。「私たちは羊の群れ 道をあやまり、それぞれの方角にむかっていく。その私たちの罪をすべて主はかりに負わせられた。」キリストはまったく罪のない方です。彼は不法を働かずその口にいつわりがなかったのにそれでも不正な裁判をうけて殺されました。それはただ私たちの代わりに受けたのです。人間的な例からすると借金がある場合、本人が借金を返すことができなければ、助ける人がなく代わりに払う人がいないなら、金を貸した人自身が借金を帳消しにします。借金が消えるわけではありません。お金を貸した人は自ら損をします。それと同じようなことです。キリストは私たちが受けるべき罰を代わりにに受けてくださった。私たちが罰を受けずにすむためです。それは罪のゆるし・罪からの解放と言われています

 

主は僕についても預言者をとおしてこう言われます。「私の僕は多くの人が正しいものとされるために彼らの罪を自らおった」それも代わりということを伝えています。その目的、そのような罪をとりのぞくだけではなく多くの人が正しいものとされるために。「正しいものとされる」という表現は神さまの前に正しいものとされる。神さまと正しい関係にたちかえる・戻るという意味です。正しい関係とは神さまの愛との親しい交わりです。それを主なる神はのぞんでおられます。そのために人間を創造されました。人間が罪をおかしてご自分から離れたときは、そのためにキリストをつかわされました。そのためにキリストを十字架にかけられたのです。人間が神さまとの親しい愛の交わりに戻るために。かえるために。最初の創造の目的を達するために。

 

もう一つ深いところがあります。私たちは罪を考える時、あの罪この罪・・・と数えます。そしてさまざまな罪をおかさないように努力をします。それよりも、もっと深い問題があるのです。今の人間は自分自身にとらわれています。人間は自分自身が自分自身から解放される必要があります。人間は自分にとらわれて自己中心的なところがあります。それはあらゆるおかした罪の大元です。そのためにキリストは命を捧げたのです。その大元を取り除くためです。どのように取り除くか、十字架にかけられたキリストは十字架から人間に訴えています。それだけの大きな愛をもって、それだけ私たちのためにしてくださる。そういうことを訴えて人間がその愛にこたえるように心をひらいて主を求めるようになるために。

 

自分にとらわれている時は自分をもとめる傾向があります。主の愛にめざめたら、主をもとめるようになります。すでに自分自身からの解放のはじまりです。主を信じて主に救いをもとめる。自分の力の限界をみとめて。自分は自分を救うことができない。救おうとすることをあきらめて主に救いをもとめて、主によりたのんで心をひらいて。主の恵みが私たちの心に働いて私たちは変わります。解放されます。新しい歩みがはじまります。それは正しいものとされることになります。

 

とくに今年の受難の祝いに私たちに向けられた主の言葉だと思います。十字架にかけられた主を眺めながら、その愛を心にとめて主に救いをもとめることです