主の晩餐の夕べのミサ 2021年4月1日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 出エジプト記 12章1~8,11~14節

第2朗読 コリントの信徒への手紙1 11章23~26節

福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節

 

<お話の要約>

今日のミサは主の晩餐のミサですが、面白いことに、このミサでご聖体の制定を記念して祝っています。ただ、福音書はその箇所ではなく、最初のご聖体制定のことは聖パウロが伝えます。福音書はむしろ、キリストが弟子の足を洗ったことを伝えています。それは確かにキリストのメッセージ、生き方にも見られる「へりくだり」です。聖パウロが言うように、キリストはご自分を無にしてへりくだっておられ、足を洗うという行いを通してそれを表し、弟子たちにもご自分に倣うようにと命じておられます。

 

ここに現れる「へりくだり」は、キリストご自身の生涯において見られる特徴でもあるし、ご聖体の内にも見られます。聖パウロの言葉では、「キリストは神の子でありながら神と同じ方であることに固執しようとはせず、へりくだって人間となられ」、聖母マリアから生まれた。それはクリスマスの時に祝っている、主の「へりくだり」です。でもそれだけではなく更にへりくだって、しかも十字架の死に至るまで従順でした。聖母マリアから生まれたとき、キリストはへりくだってご自分の神性を隠された。その人間性の内に。でも十字架の上では、その人間性まで隠しておられた。十字架に掛けられたキリストの姿は、もう人間とは思えないほど惨めな姿になってしまった。更にへりくだって、人間以下の姿になられたのです。でもそれだけではなく、キリストは更にへりくだって、ご聖体の内にご自分を与えてくださいました。人間以下のものになって人間に留まらないで、私たちに糧としてご自分を与えてくださったのです。ご自分の死を通して、ご聖体の御体と御血の内に与えてくださったのです。それほどキリストは、私たちのところに来たいと望んでおられます。主は人間に近づいて、人間とご自分を結ぼうとしておられます。愛のうちに。神の元から出てこの世に来られて人間となり、更にへりくだって十字架の上で命を捧げ人間以下の姿になられたのに、更にへりくだって私たちに糧としてご自分を与えてくださったのです。そのへりくだりの三段階は、キリストの生涯において示されています。

 

特に最後のところ、主の晩餐のミサを私たちは祝っています。聖パウロが今日の第2朗読で伝えているように、主イエズスが引き渡される夜に行ったことです。その「引き渡される」ことには大きな意味があります。晩餐の後、ゲッセマネの園でキリストは逮捕され敵に引き渡されて十字架に掛けられるのですが、その前にキリストは自らを弟子たちに渡されたと言っていいと思います。パンと葡萄酒を取って「これは私の体、私の血である」と言われ、それを弟子たちに渡されて、その神秘は今日に至るまで続いています。主は「この私のために」このように行ないなさいと言われて、初代教会から教会はその通りずっと記念して祝っています。キリストは一度だけ、ゲッセマネの園で敵に引き渡されて十字架に掛けられたのですが、今は毎日ごミサを祝うたびに、私たちに渡されています。文字通り、私たちの手に渡されたのです。ご聖体拝領のときに、キリストはこの手に置かれています。「私に渡されて」います。私の口に渡されて、私の中に入ります。そこまで主は、愛によって私たちをご自分と結ぼうとされています。一致しようとされています。でも、それほど偉大な主の愛の前で、私たちの態度はどうでしょうか?人間は何かに慣れるにつけ、なんとなく習慣的になりがちです。何も考えないで列に並んで、ご聖体を戴いて席に戻る、そのようになりがちです。でもそれだったら、心は何か物足りなく感じるのではないでしょうか。

 

それほど偉大な愛の前で、私たちはもっと心から応えるべきではないかと思います。聖パウロはそのことも指摘しています。今日の第2朗読の続きで(ミサの中では読まれないけれど)、コリントの信徒に「主の体のことをわきまえないで戴く者は、主に対して罪を犯すことになります」と注意しています。これは私たちに対する課題、振り返りの促しでもあると思います。この祝いを機に、自分のご聖体に対する思いを新たにするように呼ばれているような気がします。今日から、そしてこれからも、この偉大な愛を心に留めて、ご聖体を戴くためによく心を準備し、感謝を込めて愛を込めて、自分の方から主と一致しようとする心でご聖体を戴くようにしたいと思います。