四旬節第5主日 2021年3月21日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミア書 31章31~34節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章7~9節

福音朗読 ヨハネによる福音書 12章20~33節

 

<お話の要約>

今日ですでに四旬節第5主日になります。だんだん復活に近づいています。その中で典礼は私たちの注目すべきところを、回心から次第に主の受難に移していきます。主の受難を黙想することで、回心するきっかけにもなります。

 

 

今回の朗読では受難をとりあげています。ヨハネの福音では、異邦人がイエスにお目にかかりたいと願ったので、フィリポとアンドレはそのことをイエスに話します。でもイエスは直接会おうと言わずに、別のことを話しだします。このようなことは、ヨハネの福音にはいくつか見られます。イエスは直接に質問や願いに答えないので、最初に読んだときはどうしてこんな風に話題を変えるのかという感じを与えます。でもよく考えると、前のことに繋いで別の形で答えているのです。たとえばこの場合は、異邦人個人の救いを暗示しているように見えますが、イエスが自分の使命を全うするときが近づいたということも指していると思います。一粒の麦のたとえ話のように、「地に落ちて死ななければ一つのままであるが、死ねば多くの実を結ぶ」というのは、やはりご自分の十字架の神秘を示しています。キリストは栄光を受けますが、その栄光は十字架を通してです。十字架を通してキリストは栄光を受けるのです。特にご復活において。

 

続いて、「この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るが、この世で自分の命を愛する者はそれを失う」という逆説的な言い方が出てきます。人間の常識では逆説的でしょうが、これは十字架の論理に沿っているものです。十字架の論理は世間の常識とずいぶんかけ離れています。全然違うと言ってもいいと思います。ここでひとつ私たちが問われるのは、私たちは何に従って考え行動しているかということです。いわゆる世間の常識を主な考えの基準にしているか、または十字架の論理を基準にして物事を考えているか。やはり回心の呼びかけがそこにあります。

 

キリストは最後に心強い言葉を言われます。「私は地上から挙げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」地上から挙げられることは、ヨハネ福音書では、まずイエスが十字架にかけられて地上から挙げられること、それを通して死者の中から挙げられて復活し、天に昇って御父の右の座に着くという、地上から挙げられることは全部含んでいます。でもそれは、十字架から始まるのです。十字架に掛けられて挙げられたキリストは、すべての人をご自分の元に引き寄せます。主の十字架は何よりも、この上ない主の愛を示しています。この上ない慈しみ、その人に対する赦しと恵みを与える神秘です。そういう神秘に惹かれる人は、キリストの元に引き寄せられます。

 

ここでもまたひとつ、問いかけられることがあります。人が引き寄せられるには、ある程度の自由が必要です。その自由は内面的な自由、心の自由。この世で自分の命を愛する者は失う。この世での命を愛する者は、この世の様々なものに執着しているので、キリストが引き寄せようとしても、執着に足を引っ張られて引き寄せられないのです。回心の重要さもそこにあります。キリストは惜しみなく恵みを与えてくださるけれど、人間がそれを受けるにはどうしてもその執着を捨てる必要がある。執着したものを捨てて自分をそこから自由にし、主に向かう心が必要です。それこそが回心で、ここでいう「この世での自分の命を憎むこと」になるのです。執着はもういいとして、それよりキリストを選びます。すべての回心はそこですが、最終的には自分が自分自身を選ぶかキリストを選ぶか、自己中心的に生きるかキリスト中心に生きるか、のどちらかになるのです。回心の歩みは、自己中心的な生き方からキリスト中心の生き方へと成長していく歩みです。そしてそれによって、自分がキリストに仕える者になるのです。

 

今日のキリストの言葉によると、キリストに仕える者はキリストに付いて行って、キリストと同じ者になります。そして、御父はそのような人を大切にしてくださるのです。